the brave story/zero
[5]
その日の朝から、ルイズの様子がおかしかった。
「ヴァリエール様、朝が来ましたよ」
起きて一番に洗濯を済ませてきたムスタディオは、寝ているルイズを起こす。この世界に来てからの彼の日課だった。
労働者達の生活力に満ちた朝の空気の中で深呼吸し、少しだけ気分をリフレッシュさせるが、その後に彼女を起こすと考えると、肺の中に溜めた空気がやや淀む気がした。
そのまま寝ていてくれないかなと半分本気で考えていると――本当に起きなかった。
「おい、ヴァリエール様、朝ご飯を食べられなくなるぞ」
彼女が反応を示したのは、四度も呼びかけた後だ。
「……ん、分かってるわよ……」
起き出したのはさらに経ってからだった。のたのたと下着を身に着けている。
彼女のブラウスのボタンを留めながら顔を見上げてみると、赤みがさしていた。汲んできた水で洗顔も済まさせたというのに、未だ起き抜けみたいに目がぼんやりしている。
「ヴァリエール様、体が重くないですか?」
「……少しぼんやりする。なかなか目が覚めないわ」
声にも力がなかった。いかに関係が悪かろうと、病気となれば話は別だ。
ちょっとごめんよと断りを入れ、ムスタディオはルイズの額に手をやる。
「……なに、してるのよ」
「熱を見てるだけですよ。そんな目で見るなって……けっこう熱いぞ。喉とか、どこかに違和感はないですか?」
「……どうもないわ。ぼうっとするだけよ」
「はあ、まあ風邪か何かだな。医務室に行きましょう」
しかし、ルイズはぶんぶんと首を振った。ムスタディオの手が払われる形になる。
「遅刻しちゃうじゃないの……そんなこと絶対できないわ」
少しの間説得をしたが、ルイズは頑として首を縦に振ろうとしなかった。
仕舞いには「食事をしっかり取って、勉学を受けられる感謝を胸に集中すればすぐに治るわよ」とやぶれかぶれのことを言い出したので、ムスタディオとしても納得せざるを得ない。
「分かったよ。悪化しても知らないからな」
しかし午前の授業の間、彼女はお世辞にも集中出来ていると言える様子ではなかった。
本人もそれを自覚したのか、お昼休みに医務室へ向かうことになった。
――それがきっかけになるとは知らずに。
[The Brave Story/Zero]-05
疲労による発熱、と養護教諭に告げられた。
(オレが熱出したいくらいだ)
力なく思うムスタディオは、医務室のベッドで寝息を立てているルイズを見つめていた。処方された薬を飲んだルイズに、今から少しだけ休むから起きるまで絶対に傍を離れるな、と言い含められていた。
ルイズは、自室で眠っている時でも見せないような穏やかな顔をしていた。
表情の膜を取っ払ったらこんな端整な顔立ちをしているのか、と気付く。嫌われていることを改めて感じ、気分が沈んだムスタディオは視線を外して医務室を見回した。
数日前と何ら変わりのない室内。隅の机で養護教諭が書類を書いている。
この場所で目覚めてから、この悪夢みたいな生活が始まったのだ。
否応なしにここ数日間の記憶を、そしてそれ以前のことを反芻させられる。
その内に、ふと何故だろうと思った。誰とも会話させてもらえず、主の少女には犬と呼ばれこき使われる。
しかし、それだけだ。以前の命を賭して戦う日々とはまるで違う。平穏と言ってもいい。
何故こんな小さなことで自分は、狂おしいほど圧迫感を感じているのか。
――それはいつもの自問自答だった。
以前の彼は考えるより動き、思いついたことを即実行するような性質だった。仲間との他愛無い会話も大好きで、くだらないことを言って笑わせていた。頭も悪いほうではなく、敵を欺いたことは何度もある。
しかし日常的に誰とも接することがなくなり、与えられた莫大な時間の中。
彼は誰かと話す代わりに延々と何かを考えるようになり、今までは気付きもしなかった自分の側面へ目を向け始めていた。
今までの自分と、今の自分は明らかに違う気がする、とムスタディオ自身もそれを感じていた。
何が原因なのだろう、と今日まで考え続けていたが――何となく分かった気がしていた。
(……義務感、とか、自分から、とかそういうのかな)
あの戦いの日々は、絶対にやり遂げなければという気持ちを伴って流れていた。
この生活は、自ら望んだものではない。
よく考えれば、生まれてから今日まで、身分の違いや貧困による理不尽に苦むことはいくらでもあった。
しかし、その中にも機工士としては充実した日々は送れていたし、仲間と共に戦った日々は、今思えば死や失望と隣り合わせであれど仲間との強い絆、そして「自分自身を生きている」強い実感があった。
それがこの場所には――
「……はは」
乾いた笑い声が口から漏れた。顔を両手で覆った。
仲間の大切さを、思う。改めて、改めて皆生きていて欲しい、と思う。
そして、オレ、こんなちっぽけだったんだなあと思った。
――何か、一人になりたかった。
一人になれなくても、自分を監視する目から逃れて行動したい。
ルイズを見やる。
しばらく目を覚ましそうにはない。
「……すいません、ヴァリエール様が休んでいる間に、昼食とってきます」
◇
「おお? その香水は、もしや、モンモランシーの香水じゃないのか?」
「そうだ! その鮮やかな紫色は、モンモランシーが自分のためだけに調合している香水だぞ!」
「そいつが、ギーシュ、お前のポケットから落ちてきたってことは、つまりお前は今、モンモランシーと付き合っている。そうだな?」
煌びやかなアルヴィーズの食堂は、何やら騒がしかった。
金色の巻き髪に、フリルのついたシャツを着た派手なメイジが周りの男子生徒や女子達と口論をしている。
断片的に聞こえる内容からすると、どうやら金髪の彼が二股をかけたらしい。
「――ケティ。いいかい、僕の心の中に住んでいるのは、君だけ……」
ばちん、と良い音が食堂に響き渡る。
「その香水があなたのポケットから出てきたのが、何よりの証拠ですわ! さようなら!」
「――やっぱり、あの一年生に手を出していたのね?」
「お願いだよ。『香水』のモンモランシー。咲き誇る薔薇のような顔を、そのような怒りでゆがませないでくれよ。僕まで悲しくなるじゃないか!」
もう一つ良い音が反響する。
「うそつき!」
走り去る足音。ざわめきが大きくなっていく。
「…………」
少し前の彼なら仲介を買って出るか野次馬に混ざるかしていただろうが、ムスタディオは肩をすくめるだけで床に下ろした腰を上げようとしない。
貧しいスープを啜る。勝手にしてくれ――そう考えていた時、視界にある姿が映った。
「君が軽率に、香水の壜なんかを拾い上げたおかげで、二人のレディの名誉が傷ついた。どうしてくれるんだね?」
「あ……も、申し訳ございません! まさかこんなことになるなんて思っても見なかったんです!」
先ほどの男子生徒――ギーシュというらしい――が、給仕の少女に言い掛かりをつけていた。ギーシュの落とした香水は、彼を引っ叩いた女生徒が自分の大切な人にだけ贈る印であり、それを給仕の少女が善意で拾い、渡そうとしてしまった。それが今の騒動の発端らしかった。
給仕の少女に視線を絞る。見覚えがあった。
毎朝洗濯の場で一緒になる彼女は、最低限のことしか話さないムスタディオにも親切に接してくれていた。
確かシエスタと名乗った、「平民」の少女だった。
ムスタディオは目を細め、スープの皿を床に下ろす。
立ち上がって二人の下に歩いていくと、ぶっきらぼうに言い捨てた。
「おい、やめろ」
椅子の上で高慢な風に足を組んでいたギーシュが、怪訝そうにムスタディオを見る。
「なんだね、君は。見ての通り今は取り込み中だ。後にしてくれたまえ」
ムスタディオはギーシュの言葉を無視して続ける。
「その娘を責めるのは筋違いだろ。二股をかけたお前が悪いぜ」
周りの男子生徒たちがどっと笑った。
「その通りだ! ギーシュ、お前が悪い!」
ギーシュの顔に羞恥が広がっていくのを、ムスタディオは底の冷えた目で見ている。
「……一体なんだね君は。見たところメイジではなさそうだな、平民か。どこから入り込んだのか知らないが、高貴なるこの場には相応しくない。出て行きたまえ」
平民、という言葉にムスタディオの表情が黒い陰を纏ったことに、誰も気付かない。
「じゃあお前の行いは、高貴って言えるのかよ」
気付けば、そんなことを口走っていた。
「二股がバレたからって、その責任を善意の平民に押し付ける。そんなプライドが貴族の高貴さなのかい?
オレの知っている貴族は、そんな下らないものは持ち合わせていないぜ」
周りの反応は多種多様だった。
何だコイツはとムスタディオを睨む者、面白がってギーシュを囃し立てる者。
シエスタは顔を真っ青にして「ムスタディオさん、何てことを! グラモン様に謝ってください!」と懇願してくる。
しかしそのいずれもムスタディオは見ていない。
彼の視界の中では、ギーシュが表情をなくしていた――その目だけが光り、ムスタディオを見返している。
「……君は、そうか、見たことがあるぞ。ゼロのルイズの使い魔だな。
皆、どうやらミス・ヴァリエールは使い魔のしつけすらまともに出来ないらしい。だから代わりに、この僕が上位者に対する礼儀を教え込んでやることにしよう!」
「好きにしろよ」
ギーシュの友人達から好奇のどよめきが上がった。
「よろしい。ではヴェストリの広場で待っている。準備する時間を与えよう。心が決まったなら、出てきたまえ」
気障な仕草でそう言い放ち、取り巻きと共に去っていくギーシュを見送る。
振り返ると、シエスタはいつの間にかいなくなっていた。ムスタディオは首を振り、ギーシュのことを考える。
戦いの経験もなさそうな、痩せた貴族に遅れを取るとも思えない――ブレイズガンに触ることはルイズに禁じられている。
空手でもやってやろう。そう決めたムスタディオはそのまま誰かに広場の場所を尋ねようとしたが、
「ちょっとあんた! 何してるのよ!」
響き渡った主の声に振り向くと、食堂の入り口に、不安そうなシエスタを伴ったルイズの姿があった。
◇
ルイズを揺り起こしたのはムスタディオではなく給仕の少女だった。
寝ぼけた頭で何故使い魔がいないのか不思議に思っているところに、
「大変です! わ、私のせいで、ムスタディオさんが、グラモン様と決闘を!」
眠気も熱っ気も吹っ飛んだ。
すぐさま食堂に走り、ムスタディオを捕まえて叫ぶ。
「人が休んでる間に勝手にうろついて、何やってんのよこのバカ犬!! あんた何考えてるのよ! 勝手に決闘なんか受けちゃって!」
「しつけられてない犬が……吠え付いただけだろ。嫌いな臭いを出してる貴族にさ」
ムスタディオにそんな好戦的な挑発をされたのは、初めてだった。
しかし何が彼をそんな言動に駆り立てたのか考える暇もなく、ルイズは激昂してしまう。
「さっさと謝って来なさい! メイジに魔法も使えない平民がかなうわけなんか、絶対にないんだから! 今ならまだ、痛い目にあう前に許してくれるかもしれないわ」
「痛い目なんて、どうでもいいんだ……いい加減にしろよ」
ヴァリエール様、とシエスタと名乗った給仕がルイズの服の裾を引っ張る。
何よ、と噛み付こうとした彼女の顔が先ほどよりもっと蒼白なのを見た時、そこでやっとムスタディオの様子がいつもよりおかしいことに気がついた。
わなわなと震えているムスタディオの口が動き続ける。
「魔法が使えない者が貴族。貴族がこんなに偉そうに。魔法が使えることがそんなに偉いのか……持たざる者であることは、そんなに悪いことなのかよ……!」
恐ろしいほど押し殺した、しかし滲み出る怒気を隠せない声だった。
ルイズは一瞬、息が詰まった。それは相手の感情にたじろいでではない。
(持たざる――者)
嫌な考えがもの凄い速度で伸びる根のように絡み合い、姿を現す。
貴族。メイジ。魔法。
持たざる者。
『わ、私は……どうせ、どうせ持たない者なのよ』
自分も、持たない者かもしれないと、心のどこかで思ってしまっていた。
だというのに。
いや、だからこそなのか。
自分は、皆から受けているからかい、誹謗中傷と似た仕打ちを彼にしてしまっていたのではないか。
心が凍りつく。
しかし裏腹に、口が動いていた。
生まれてからこの瞬間までに積み上げられた性格が、本心をよそに売り言葉に買い言葉を放っていた。
「わ、わ悪いわよ! さっきから権利ばっかり口にして、あんた私の言うことちっともきかないじゃないの!
権利主張するのなら義務を果たすか、それなりの力を見せるかしなさいよ! この口だけ!!」
――恐ろしい、沈黙があった。
ただムスタディオが黙っただけだというのに、周囲の喧騒が全く耳に入らなくなった。
彼の目のせいだった。
今までの不満が一切抜け落ちた、人形のガラスみたいな目。
「口だけじゃないってところを、見せればいいんだな」
その、声に。
取り返しの付かないことを言ってしまった後悔があった。
「分かった」
既に遅かった。後悔は先にできなかった。
ムスタディオが踵を返す。食堂を出て行く後姿を、ルイズは呆然と見つめていた。
シエスタがあたふたと何か言っていたが、罪悪感に支配された頭には意味が入ってこなかった。