the brave story/zero
[7]
二つの月が照らし出す夜の底。
ヴェストリの広場は、昼間の喧騒が白昼夢だったかのような静寂に包まれている。
その外れで、ムスタディオはぼんやりと寝そべっていた。
傍らにはブレイズガンと整備してそのままの工具、打撲だらけの体に塗りたくったポーションの空壜が転がっている。
よく効く物は焼けてしまっていたため、気休め程度にしか傷は癒えていない。
ムスタディオは決闘の後すぐに部屋に戻り、自分の装備品の一切を持って出てきた。
頭が空っぽだったが、とりあえず誰とも――特にルイズとは――顔を合わせたくなかった。
人気のない場所へ移動し続けていたら、最終的にこの場所に落ち着いたのだった。
その瞳には色の違う双月が映り込んでいたが、ムスタディオは何も見ず、節々の痛みと気だるさにだけ身を任せていた。
あれだけ全身を巡っていた凶暴な気持ちはおさまっていた。
けれどそれは、体の奥底に格納されただけだと感じる。
機会があれば、きっといくらでも発露する。
ふと夜が明けたらどうしようかと思ったが、今は何も考えたくなくて、だらりと手足を投げ出していた。
そんな彼の視界から月が消えた。何かに覗き込まれている。
身を起こすと、サラマンダーがきゅるきゅると鳴いていた。ツェルプストーとか言う生徒の使い魔だ。名はフレイムだったか。
「どうしたんだ、お前。暖でも取らせてくれるのかい?」
最初に見た時こそ驚いたが、今は飼いならしたチョコボみたいなものだと認識を変えていた。
尻尾の火に手をかざしてみると、夜風で冷えた体に暖かさが沁み入る。
ちょこちょこと動くフレイムがいかつい外見ながらも可愛らしく、疲れが少しだけ和らいだ気がした。
フレイムはぶるりと身震いすると、寒いから暖かい場所に行こうとばかりにムスタディオの服の袖をくわえて引っ張り始めた。
「な、なんだ? おい、放せって」
しかし人間とサラマンダーでは膂力が違う。ぐいぐいと服を引き千切られそうになったのでムスタディオは抵抗を諦めた。
半ば引きずられながらブレイズガンのベルトを腕に引っ掛け、フレイムに連行されていく。
やって来たのはルイズの部屋の前だった。一瞬上着を犠牲にして逃げようかとも思ったが、どうやらフレイムの目的はその隣、キュルケの部屋のようだ。
扉が開け放たれている。
「……なんなんだ」
貴族の部屋に連れ込まれようとしている。
そうと分かった途端、しまい込まれていた黒いものが蔓を伸ばし始め、身体が内側から絡め取られていくのを感じる。
[The Brave Story/Zero]-07
フレイムに部屋に引っ張り込まれると、中は真っ暗だった。
「ようこそ、こっちにいらっしゃい」
キュルケの声が聞こえて来る。後ろでフレイムが扉を閉める音がする。
ムスタディオがそのどれにも反応せずにいると、キュルケが指を弾く音が聞こえた。
部屋の中に立てられたロウソクが、ムスタディオの側から一つずつ灯っていき、キュルケの側へと灯りで縁取られた橋が渡される。
ぼんやりと淡い幻想的な光の中、ベッドに腰掛けたキュルケはほとんど裸みたいな官能的な下着をつけている。
悩ましい姿だ、とムスタディオは素直に思った。
「そんなところに突っ立ってないで、いらっしゃいな」
キュルケが艶やかな声で言う。
しかしムスタディオは入り口の前から動かず、ただキュルケの姿を見ている。熱っぽいキュルケの目つきと無言のムスタディオの視線がしばらく絡み合った後、キュルケがじれったそうな仕草で立ち上がった。
「――緊張してるの? ならあたしから行くわ」
体をなめらかに揺らしながら、キュルケが灯りのアーチを渡ってくる。
「あなたは、あたしをはしたない女だと思うでしょうね」
褐色のすらりとした腕がムスタディオに伸びる。その指先が、頬をなでた。
「あたしの二つ名は『微熱』。松明みたいに燃え上がりやすいの。だから、いきなりこんな風にお呼びだてしたりしてしまうの。わかってる、いけないことよ。でも、あなたはきっとお許しくださると思うわ」
両手がムスタディオの顔を猫の様に通り過ぎ、頭の後ろで組まれる。
キュルケの顔は今や、すぐ目の前にあった。吐息が甘い。女の香りがする。吸ったそばから、頭の芯に霧がかかるような。
「ギーシュを倒したときの姿……あの強力な魔法……。容赦ない冷たさで、でもすごく逞しい氷だったわ。あたしの炎とは正反対」
いやがおうにも彼女の野生的な、それでいて瑞々しい肌が視界に飛び込んでくる。
胸板を撫で回されはじめていた。たおやかな指が肌をまさぐる度に、内出血を起こした箇所にかすかな痛みが走った。
しかしそれは、ぴりりとした快感でもある。
「でも、それを見て痺れたの。あなたの心が知りたいわ。ねえ、あの魔法みたいにあなたの心は冷たいの? そうだとしたら、あたしとあなたが交われば、丁度いい温度になると思わない? ……いいえ、あたしがあなたを溶かして、熱く熱くさせてあげるわ!
あたし、あなたに恋してるのよ!」
潤んだ瞳。妖艶な微笑みが見上げてくる。
ムスタディオは一言で応えた。
「ふざけるなよ」
ブレイズガンを掴む。
◇
――昼間の決闘の際。
遠くから決闘が終わった様子をキュルケが見ていると、ムスタディオがルイズの元に歩いていき、何かを言った。
途端、ルイズは尻餅をついてしまった。
いつまでも立ち上がろうとしなかったので、キュルケは傍に行って引っ張り上げてやる。それでもルイズは動こうとしなかった。
「何腰抜かしてんのよ、なさけないわね」
と言いかけて、ほとんど気絶してるように何も反応せず顔が蒼白になっている様子に気付き、これは尋常じゃないと慌てた。
部屋に連れて行ったが、ルイズはベッドに腰掛けたまま自失呆然としている。
タバサがルイズを指差して「手遅れ」と呟いたのが不安を煽る。
結局、ルイズは午後の授業に出てこなかった。
だから、何が起こっているのか確かめようと思った。
誘惑したのは半分くらいは冗談だった。
あの田舎ものっぽい、女に免疫のなさそうな男をひとしきり困らせて反応を楽しんだ後、ルイズがどんな様子か、そしてムスタディオがどういう人間なのか話を聞き出そうと思っていた。そして様子によってはそのまま……。
しかし、呼び出したムスタディオの反応は、キュルケの予想とは遥かに違っていた。
「ふざけるなよ」
拒絶するムスタディオの目は、人形みたいに感情を感じられない。
その得体の知れない様子にキュルケは気押され、しなだれかかっていたムスタディオから体を引いてしまう。
「オレに惚れたって。バカにするなよ、どこに惚れたっていうんだ。この銃か」
ムスタディオが杖を振り上げた。
――あの杖は、詠唱なしで魔法が発動する。
しかしキュルケが想像した最悪の事態は起こらない。
ムスタディオはたすきがけにしていたベルトを外すと、杖を脇に放り投げたのだ。
がしゃりという音が夜の静寂を一瞬だけ散らし、何本かのロウソクが床に倒される。フレイムが驚いてうなり声を上げている。
先ほどまでの押しの一手から一転、怯えたように窺うキュルケに、ムスタディオが言葉を続ける。
「どうせあんただってオレの話なんか信じやしないんだ。あんただってそうなんだろう、なあ、貴族様」
ムスタディオの目に、初めて感情らしきものが浮かぶ。
それは深い悲しみと、諦めの色だった。
――その様子に。
『や、と成功した、って、思ったら、あ、んなし、しにそうな人で。失敗も、いいところ、じゃ、ない。こ、こんな落ちこぼれの、どこを、誰が、心配するって、いうのよ』
どうして、あの子の泣き顔を重ねてしまうのだろう。
「……話して、みてよ。じゃなきゃ、なにも分かんないわ」
気付けば、恐る恐るそう言っていた。
あれだけの力を平民の身で持ちながら、彼は何を抱え、また抱えきれずここまで追い詰められているのか。
それまでは、彼に接触する理由はルイズの使い魔だからというものが大きかった。
しかし今、「彼自身」に興味を持ち始める自分を、キュルケは感じていた。
◇
いろいろあって、考え疲れた夜。
隣のキュルケの部屋が騒がしかった。
ルイズは最初、彼女が取り巻きの一人といちゃついているのかと思ったが、なんだか次第に声のトーンが大きくなってきた。途中でがしゃりと音もした。
その内に気付いてしまった。
もう一人の男の声、あれは――ムスタディオだ。
ルイズはベッドからはね起き、隣のキュルケの部屋へ飛び込んだ。
「あんた何油売ってんの、それもツェルプストーの部屋で」
そう言おうとして、言えなかった。
部屋ではあられもない格好のキュルケがベッドに腰掛けていた。
ムスタディオは少し距離を置いて椅子に座り込んでいたが、キュルケを見るだけで何が起こったかは明白だ。
自分の使い魔が赤の他人、それもツェルプストーに誘惑された。
それだけで頭にくるようなことだが、ルイズはその怒りすら感じることはなかった。
ムスタディオが振り向いて、ルイズに気付いた瞬間の目つき――それを見て彼女は思ったこと、言おうとしたことのもろもろを躊躇してしまったのだった。
「あら、ルイズじゃないの。ってムスタディオ?」
ムスタディオが椅子を立って、道端で通りすがった見知らぬ他人みたいにルイズの横を通り過ぎていく。出て行って数秒してからはっとなったが、ルイズは恐ろしくてムスタディオの後を終えなかった。
代わりに、ベッドの上で足を組み、何も言わないキュルケに歩み寄った。
「……弁解を、聞かせて、もらおうかしら?」
キュルケは肩をすくめた。
「何もしてないわ。本当は誘惑しようと思ってたんだけど、彼ったら自分からあたしに指一本触れてくれないんだもの。あれ、誰か心に決めた人がいる顔ね」
軽口を叩くキュルケを、ルイズは眉根を寄せてねめつける。
「そんな、はしたない格好で、人の使い魔に、なにを、」
「あんた、」
キュルケがルイズの言葉を遮って、ため息をついた。そして次の言葉に、ルイズは固まってしまう。
「あの人がまだ自分の使い魔だと思ってるの?」
少しの間、何も言えなかった。
ルイズの顔からは先ほどまであったかすかな嫌悪が削げ落ちていた。感情を表に出す余裕がなかった。
震える唇を――かろうじて動かす。
「どう、いう意味、よ」
「あの人、あなたのことを全く信頼していないわよ。いろいろな話を聞いたけど、酷い仕打ちをしたみたいね。犬呼ばわりしたり、鞭で打ったり、彼の言うことを信じてあげなかったり」
羞恥で顔がカッと熱くなるのを感じ、思わず大声を出していた。
「それは、あいつが変だからよ!」
途端、キュルケが飄々とした様子を一転させて睨みつけてくる。
「だからってあそこまで酷い状態になる前に、対応変えられなかったの?
あのね、確かにあの人の言ってることはかなりおかしいわ。けど……一方であたし、あの人はどこかの世界の英雄か、その仲間なんじゃないかって思っちゃったわ。だって本当にそういう、叩き上げられた深い眼をしてるんだもの」
「……あんた、あいつの言うこと信じてるの?」
「まさか。全部が全部は信じられないわ」
キュルケは両手を広げて肩をすくめた後、何か哀れむような目でため息をついた。何でキュルケにそんな目をされないといけないのかと思う。
思うが――それに腹が立つような気概もルイズは使い果たしていた。
「あれだけ必死な語りかけを無視するのは酷いんじゃないって話よ」
キュルケはそう言い、少しだけ気の毒そうな顔をした。
「彼、本当に悩んで、苦しんでいるみたいだったわ。……うまくいえないけど、あの話には何かしら聞くに値する部分があると思うの。
その意味じゃ、最初っから聞く耳を持たなかった貴方も、軽率なんじゃないかなって思ったわ」
「……そ、そんなの分かってたわ! 何日も前から悩んでたもん!」
自分が分かっていることを言われる。
それはお前の悪いところが直ってないぞという指摘であり、反射的にルイズは言い返してしまう。
しかし彼女の言葉は、すぐさま自分自身に取って返された。
「じゃあ、何で何もしないの? あの人、主人が申し訳ない素振りや優しくしてくれたことはほとんどないって言ってたわよ」
「だ、だって、今更謝れないもん。それに――」
それに。
ルイズはあの目を思い出す。
そしてあの言葉を。
『口だけじゃなかっただろ』
お昼休みからさっきまで延々と頭の中で繰り返されていた。
繰り返されていた。
繰り返される自責に、もう耐えられなかった。
「――もう、許してもらえるなんて、思えないもん……」
◇
その弱音に。
キュルケは、サモン・サーヴァントの夜のように頭に血が昇るのを止められなかった。
「ああもう! 本当は、これ以上ヴァリエールに塩を送るまねなんてしたくないんだけど!
あのね、あたしは微熱って言われてる。恋に生きるあたしから一つ言うわ。
恋はね、相手に好きになってもらえるかもらえないかじゃないのよ。落とせるか落とせないかなの。そのためには手段を選ばないわ。
仲直りだってそうでしょう? 許してもらえるか、もらえないかじゃなくって。和解できるかできないか。
何が今更謝れない、よ! 甘えてんじゃないわよ! 何弱気になってんのよ!!」
今度は、平手打ちは自制心を総動員して抑えた。
つかみ掛かりもしなかった。
その代わり――ルイズが、今まで見たことのないような傷ついた表情で部屋から飛び出していくのを止めはしなかった。
この間のように気を使ったりは、もうしない。
あとは二人の問題だ、と思う。
「……あたし、何でこんなことしてるのかしら」
ばかみたい。
キュルケは不満げに呟く。
そして今夜逢引きの約束をしている男の子達のことを考え始めた。
今の一連の出来事のせいで、二人との約束を反故にしてしまっている。
あんたたちのせいで、恋に支障がでちゃうじゃないの、ばか、と思った。
◇
分かっていた。
自分がどんどんおかしくなっていって、どうにかしようともがいていて、でもそれが根こそぎ裏目に出て。
今思い返せば、何だかんだ言って一番自分に関わってくれていたキュルケにすら失望されかけている。
その事実にルイズは、より一層打ちのめされた。
そして何より、その事実をキュルケによって突きつけられたことに、最もダメージを受けていた。
彼女にだけは絶対に負けたくなかったのだ。
ツェルプストーからの施しなんて、絶対に受けるつもりはなかった。
なのに。
くやしいけど、今のキュルケは私よりよっぽど魅力的な女の子だ。
「バカっ……バカ! ばかぁっ!!」
キュルケの部屋を飛び出し、外をむちゃくちゃに走りながら叫んだ。
誰に対して悪態をついているのかも分からなかった。
ムスタディオに、何が何でも詫びなければならないと思った。
彼が狂っているのかどうか、もう分からなくなっていた。
狂っているのは自分のほうだったのかもしれない、と思った。
絶対に変わらなければならない。
このままでは、誰の顔も見れない駄目な女になってしまう。
◇
翌朝、ルイズは一人で起きた。
一人で洗顔を済ませたし、身支度も全部一人でした。早起きして洗濯もやった。
朝ご飯も一人で食べ、授業も一人で受けた。色々あって忘れていた熱がまだ少し下がりきっていなかったが、全ての授業に出席した。
そうしながら一日中、部屋に戻ってこない自分の使い魔のことを考えていた。
なんて謝ろう、と思った。
誠意を見せなくちゃいけないだろう。でもどうやったらいいのか。
何か贈り物をすればいいのか。土下座でもすればいいのか。誓約書でも書けばいいのか。
その他にも、クラスの生徒全員に謝れるくらいたくさんの方法を考えたけど、何かどれもしっくり来なかった。
結局、素直に頭を下げて謝ろう、と決めた。
許してくれるかは分からない。キュルケが言ったような絶対に和解できるやり方はルイズには思いつかなかった。
でも、消極的なのかもしれないけど、相手に委ねるのも誠意の一つの形じゃないだろうか、と思った。
次の日になってもムスタディオは戻ってこなかった。
学院中を一通り回ってみたが、見つからない。
二日後も、三日後も、ルイズは一人で起床した。
その度に泣きそうになった。
四日目はもっと綿密に探し回り、色んな人にムスタディオのことを聞いて回った。
しかし皆が皆、ムスタディオの行方を知らないと口をそろえていた。
彼の姿は、トリステイン魔法学院から消えていた。