ゆめのきずな
[幻影の絆]

プロローグ



 一面が火の海だった。

 部屋内は煙が充満し、むせ返る。呼吸が上手くできない。それ以前に、私は痛みで過呼吸寸前の息遣いになっている。
 それは、地震の二次災害による火災だった。震度六の大地震が街を襲い、安普請の建物という建物が崩落した。
 私が住んでいたアパートは、少しはお金をかけていたのだろう、骨子そのものから崩れ落ちることはなかった。
 建物そのものは無事だったけど、その中身、住人が持ち込んだ物の扱いまでは建築会社の知るところじゃない。私は地震で飛び起きたところに、倒れこんできた本棚の直撃を食らった。
 火の手はおびただしく部屋を侵食していた。カーテンが燃え、シーツが燃え、本が燃える。
 本棚に下敷きにされた私の左腕もまた、炎になぶられ焦げている。すえた匂いで鼻は麻痺してしまった。麻痺しているのは嗅覚だけではなく、既に熱さの感覚もない。
 でもその中で、痛覚だけは狂おしいほどに正常だ。
 左腕を見る。私の左腕。倒れた本棚は本がぎっしり詰まっていてとても重い。全重量の乗せられた金属製の尖ったフレームは、私の肘を食い破っていた。
 紅い。鮮紅色の中心に白いものがちらほら見える。骨だ。しかもへし折れているみたい。私の腕は、肘の部分を力任せに押し切られ、三分の一しか胴体と繋がっていなかった。薄皮一枚というには中途半端。あまりにも生々しい光景に、目を背けたくなるという思考すら出てこない。
 ただひたすらに痛かった。逃げるという当たり前の選択肢があまりの痛みになかなか出てこず、逃げようと思えば腕から本棚をどけなければいけなくて、でも見事に食い込んでしまっていて動かそうとすると失禁しそうになる。もうしていたかもしれない。

 そこは、灼熱の地獄だった。
 生きるということが馬鹿馬鹿しく思えるほどの。

 そんな中、しかし私は「生きたい」と思った。理由なんて知らない。その時は、ひたすらに死にたくなかった。
 生きるためにはここから逃げ出さないといけない。
 そして逃げ出すためには、この腕をどうにかしないといけなかった。
 口から苦痛の呻き声が洩れる。恥も外聞もかなぐり捨てた醜い姿だったに違いないけど、こんな状況では男も女もない。死を目前にしては、人間は等しく「生き物」だ。
 そして生き物は、自分を傷つけるようには出来ていない。
 死ねば全て終わり。今ここで命を繋ぐことができないというんだったら、人の本能って何のためにあるんだろう。
「………………」
 それは、ただの言い訳。本当はこれ以上痛くなるのが嫌なだけだ。
 生きるためには、今以上の苦痛を受けないといけない。
「……嫌だ。嫌だ、嫌だ……いやだよ……!」
 何で私がこんな目に会わなくちゃいけないの?
 何で私がこんなことしなくちゃいけないの?
 多くの疑問が頭をぐるぐる巡り、消えていった。
 答えは決まってる。
 こんな目に会ったのは偶然。悪いことが重なり合っただけ。
 こんなことをしなくちゃいけない理由は、自分で分かってるはず。
 私は、生きたいんでしょ?
「…………っう、ひっく……」
 怖くて怖くて涙が止まらない。涙は流れたそばから熱気に蒸発していく。
 生きることとは削れることだ、と誰かが言っていた気がする。その意味を、私は今知った。
 泣きながら、唇をめくれ上がらせる。歯を剥き出しにする。

 躊躇いは一瞬に留め。
 私は、肘の傷口に噛み付いた。

 口の中に広がる鉄の味。それを咄嗟に認識できないほど、私の脳髄は痛覚に覆い尽くされた。全身の感覚が波が引くように失せる。どこにどう力を入れているのか分からなくなり、顎の力だけは抜いちゃいけないと沸騰する頭は気違いのように首より上の筋肉を力ませる。
 ごり、ぶち、と歯が肉を喰い千切る聞くに堪えない音は、炎がさかる音に飲まれていく。でも、口の中で生まれるそれらの音は、間違いなく私の耳に届く。
 腕が抜けないなら切り捨てなきゃいけない。蜥蜴みたいに。
 人であることは捨てろ。今、私は蜥蜴。尻尾と違って腕は生え変わらないけど――
 そんなことは考えたら負けだ。
 私は生きる。
 生きるんだ。
 そのために、腕を、
 腕を、
 ――腕を、噛み切れ。



 そうして、私は腕を自ら失うことで、火事の中を生き延びた。
 私という存在は死ななかった。
 その代わり、私の中で死んでしまったものがある。
 私はその日一日で、痛みというものを感じすぎてしまった。
 そのせいか、私の感覚は、半分死んでしまっていた。

 それだけじゃない。
 私は腕を切り捨てた。
 けど、蜥蜴の尻尾がまた生えてくるように、私の腕は失われていなかったのだ。
 私は、自分がわからなくなった。




 人か、蜥蜴か。
 ほんとうに、わからなくなったのだ。




鬼 走 り(ghost runner




0/

 なんだってあの男はあんな物騒な物を持っていたんだろう。
 ナイフ。
 それも洋物アクションの中でしかお目にかかれないような大振りのサバイバルナイフ。
 あれを振り回された時、闇夜に煌いた銀色が、頭に焼き付いて離れない。
 なんだって俺はあんな物騒な人間に襲われたんだろう。
 自主トレをやっている最中に、部員と会った。
 部長と部員が揃えば、後はやることは決まってる。
 部活だ。
 そう、部活。
 部活をやってただけなのに。
 どうして襲われなきゃいけなかったんだろう。
 それに、部員が連れ去られてしまった。
 せっかくいっしょに自主トレをしてくれる、やる気のあるやつが出てきたと思ったのに。
 また、探さないといけない。

 ……今日も部員は見つかるだろうか?

  


 目覚めは苦痛と共に。
 あれだ。寝入りかけた時に、衝動的にがばっと起き出した経験は誰にでもあると思う。大抵は階段から足を踏み外した夢とかそういうのをまどろみの中で見た時に、意識が夢と現実を混同して体が跳ね動く。
 私が見たのは、走るイメージだった。
 ――体の負荷などまるでおかまいなしの全身全霊。
 背後にわだかまる闇から逃げるように、走る。
 けれど、それだけ必死なのにも関わらず、私が逃げることはかなわない。
 逃げるべき対象は、先導するかのように私の前を走っていたのだから――
 その矛盾を意識した瞬間、私は跳ね起きた。
 鼓動が気持ち悪い。やたらと回転数が上がってるのに不規則で、唐突に止まってしまいそうだ。息を思い切り吸いこんで止める。一秒。二秒。三秒。頭蓋骨の裏側がぴりぴりする。落ち着け。
「……ふ、はぁ、ぁ、はあ、はあ」
 規則性が戻ってくれたところで、全身が汗まみれになっていることに気づいた。夢と現実の境が曖昧になり、幻影の疲労が体に宿ったのか。私に限ってはありえない話じゃないなあとかとりとめなく考える。肩で息をしながらぶるりとひと震え。
 それで体のねじが切れたのか。
 今度は猛烈な虚脱感に襲われて、ばふりとベッドに倒れこんだ。
 視界一面が細かい穴の模様を刷られた天井で占められる。少し視線をずらすと、デジタルの掛け時計がAM3:26を指していた。
「――やあ、気がついたみたいだね、ソーギ」
 それは見慣れた光景だった。
 これは彰俊さんの事務所、その奥にある宿直スペースだ。リビングキッチンバスルーム完備。ここまで来れば生活できそうなものなのに、彰俊さんは自分の家からここに毎日通っているという。そもそもの話、まだ大学二年生の彰俊さんはどうやってこの事務所の維持費を捻出しているのか。謎まみれの人だった。
 そんなことを考えていたからか、ドアが開く音と、隣からの呼びかけに気づくのが遅れた。
 声の主がたった今思考の中心にいた人物であることは分かっていたので、私は天井を見上げたまま問う。
「私……気絶してたんですか。寝てたんじゃなくて」
「思い出せないかい?」
 無表情な声。すとん、とベッド脇の丸椅子に腰を下ろす音。
 記憶を探ろうとしたけれど、思考は断片的で一向に収束しない。
「――そうかい。ところで、体の調子はどうかな?」
「……すごく、だるいです。あと、左手が痛い、けど、うれしいです」
 名誉のために断っておくけど私はマゾじゃない。うれしいのは本当なんだけど。そして彰俊さんとそういう関係というわけでも絶対なかった。
 ……、なんでこんな方向に思考が進んでるんだろう。
「すいません、ちょっと惚けてます」
「だろうね」
 なんだかのっぴきならない事態へと自らはまり込んでる気がした。したのでこの話題はここで止めておくことにする。……マゾではないけどじゃれあいは嫌いじゃない。ないからここでさらに墓穴掘るのも悪くないけど今はそうする気力も湧かない、考えが纏まらない。こんな余分なこと考えてるのも多分そのせいで――
 そこで、そうだ、と気づいた。
 なんで私はこんなに疲れきってるのか?
 未だ回転数の上がらない思考が、おっちらと疑問に追いついてくる。
 そっか……私は、
「あれの後についていっちゃったんですね」
「そうだね。目は合わせたら駄目ってあれだけ忠告しておいたのに、見てしまうから」
 途端、そこまで言葉少なかった彰俊さんはいつもの饒舌さを取り戻した。
「のべ何十キロ全力疾走したんだろうね? 走るのを止めたときの君の疲労困憊の具合といったら、完走したマラソン選手どころじゃなかった。
 死んでしまいそうだったよ」
 彰俊さんの口ぶりはとても淡々としていて、まるで物のことを言われているようだった。長く息を吐くと、ねじの切れた体がベッドに沈みこむ。……下半身の感覚が、なかった。血管という血管に鉛を流し込まれ、不随になったかのよう。
「……ああいうのを兇眼って言うんでしたっけ……止めてくれてありがとうございます。私にはセリヌンティウスはいないですから、メロスのまねごとはごめんでした」
 返答にウィットを利かせようとしてみる。五十点。ただまあ、頭は少しずつ平生に戻りかけている。
 ようするに、どこか遠い感覚に。
「うん、まあアレも誰かの下へ行こうとして走ってるわけじゃないから。むしろ誰かと走ること……というより逃げることが目的なのかな。君があれだけ走ってくれたから、はっきりしたよ」
 言ってることの意味が分からなかったが、一つだけ、察することができた。
「……なんだ、それじゃもしかして、私、モルモットに使われたんですか」
「まあ結果だけを言えば、そういうことになるかな」
 なんだか遺憾である。けど私のここでの立場を考えたら仕方がない。
「はは。私は備品ですもんね」
 困ったように笑ってみせると、気持ちを切り替えようとしてみる。
 諸々のことはひとまず置いておいて、一番の問題を口にした。
「――あいつ、どうなったんですか」

 あのイメージは、夢でもなんでもない。私の身に起こった現実だった。
 そして、私を走らせた張本人は、どうなった?

 そこで初めて、彰俊さんの顔を見た。
 彰俊さんの顔はいつものように曖昧だ。怒っているよりは笑っている。憮然としているよりは楽しげでいる。それだけだ。この人は何か決定的な表情を浮かべることがない。
 でも、今は厳しく引き締まっているように見えた。
「足が恐ろしく速くてね。僕には追いつけなかった。なるほど、あれに一晩中つき合わせられたら命がないよ。君を途中で止められたのはなかなかの僥倖だった」
「……残念です」
 私が生きているのは、運がよかったかららしい。
 そのことに感謝したところで、私の下瞼と上瞼はくっついた。体は間違いなく休息を求めている。
「君にはとりあえず、休息が必要みたいだね。詳しい話はまた後日しよう。今日は家に送るよ。明日明後日は忙しくなりそうだから、ゆっくり休んだ方がいい」
 彰俊さんが何か言っている気がしたけれど、それは私の耳に入っただけだった。一度視界を閉ざしてしまうと、体は速やかに眠りに落ちていく。
 今何時だろうかとか、朝帰りになると母さんに叱られるだとか、これからどうしようかとか、庶民的な問題があった。それらも虚無に引きずり込まれていった。

 ――そんな中。
 現実を侵食した
ひだりてが、幻影のごとく痛みを訴えている。

 痛むということは、生きているということ。

 きょうは、いい日だ。

  


 さて、私がこんな状況に陥ってしまった発端の話をしよう。

 日付も変わろうという時間帯。
 私は彰俊さんといっしょに、夜の街を徘徊していた。
 このシチュエーションだけを言えば、まず大抵の人は異性間不純交友を想像するだろう。何せ女子高生と大学生が夜もふけた頃を見計らってこそこそ歩き回っているのだ。これがあやしいと言わずなんと言おう。
 ただもう少し補足をすると、同世代の子達が好む娯楽施設をハシゴ――なんてことはなく、私達はひと気のない路地をとぼとぼ歩いているのだった。
 そこはベッドタウンの端で、このまま歩いて行っても山に行き当たるだけ。家々はぽつぽつと固まって点在し、閑散とした雰囲気が漂っていた……それはそれで別の誤解が首をもたげてくるだろうけど、無用の心配、余計な下世話である。
「ここ二週間で、奇妙な死亡事故が多発してるんだ」
 この状況で彰俊さんが繰り出す話題といえば殺伐かつ不審、別の意味であやしげなものばかりなのだった。
「仏さんは、いずれも毎晩ジョギングをしている人ばかりが五人。内約は、信号無視で車に撥ねられた人間が二人。心臓麻痺で路上で倒れた人間が三人」
 そんなことを、彰俊さんは暗がりを歩きながら淡々と語っていた。私は街灯の白々とした明かりの中を歩き抜けながら、小首をかしげる。
「心臓麻痺。それも三人も?」
 三人「も」と言ってみたけど、実際のところその数字は多いのか少ないのか。二芝市の人口は十万人ほど。内、この二週間で心臓麻痺を起こした人間はどのくらいいるのだろう。しかもジョギング中に心臓麻痺となると……やはりぴんと来なかった。
「うん。話を聞いてみたところ、どうも彼らはいつものジョギングコースから大きく離れた場所で死亡していたらしい。ひどいのになると、第二中学校の辺りを走っているはずの人が、隣町のインターチェンジ付近で発見されたそうだよ」
 二芝第二中学校とインターチェンジといえば、四十キロは離れている。そういえば、公式マラソンの走行距離は四十二キロ強だったっけ。
「心臓麻痺で死んでしまった人たちって、心臓が弱い人ばかりだったんですか?」
「いや、健康のために毎日走っている人ばかりだったみたいだ。調べてみたけど、三人ともどこも悪いところはなかった」
 私はひっかかりを覚えた。鍛え上げられたランナーでさえ、四十二キロも走ればへとへとになるのだから、普通の人間がそれだけの距離を走れば満身創痍で倒れてしまうかもしれない。
 けど、それは生命に危険が及ばない程度じゃないだろうか。
 健康のために走っているということは、ある程度体力づくりはできているのだろうし、ペース配分なんかも身についていそうなものだ。そんな人間が心臓麻痺を起こすだろうか?
 そんなことを私が話すと、彰俊さんは言い忘れていたよ、と補足をしてくれる。
「事故に遭う直前の姿を、五人のうち二人が目撃されているんだ。撥ねられた人間と心臓麻痺の人間が一人ずつ。どうも短距離走並みの全力疾走をしていたらしい。それも、その速度で走っていたのは目撃された瞬間だけではないようだよ。彼らがジョギングのために家を出た時刻と推定されるコース、死亡時刻、そして死体の状態を照らし合わせてみると、家を出て数十分くらい経った頃から全力疾走を始め、それは最期の瞬間まで続いたということなんだ」
「一度も休憩はしなかったんですか?」
「うん、というかさせてくれなかったんだろうね」
 なるほど、それなら納得行くかもしれない。短距離走における最高速度というのは瞬発的なものだ。それを長距離走で維持できるようには、人体は作られていない。
 そんな無茶が行き過ぎてしまえば、身体は確実に壊れる。末端から、主要器官から。
 その結果の心臓麻痺なんだろう。
「そうだね。撥ねられて死んだ二人は、幸運にも赤信号に捕まった。それがなければさらに数十キロ走らされて、死因は高負荷による心臓麻痺、という感じになっていたかもね。
 この五人の事故は、無関係で片付けるにはあまりにも奇妙な符号がありすぎる。かといって警察じゃただの偶然とみなすしかない。まあ、そういうわけで僕のところにお鉢が回ってきたんだ。これが、今日僕らが夜歩きに出ることになったあらましだよ」
「……ですか」
 それは予想出来ていた話の流れだった。こんな時に出る話題といえば、一見あまり関係のなさそうなことでも仕事に沿ったものなのだ。
 私は立ち止まる。道脇の溝の鉄板が一部なくなって、そこだけ汚水が覗いている。どす黒く汚れた水は穏やかに流れ、見下ろす私の姿を映している。
 やぼったい三つ編みの女の子。下はジーンズ、上は半袖のブラウス。四月になったばかりの深夜はまだ寒いけれど、動きやすさを考慮したらこういう服装になってしまう。
 水面越しに、左腕を見る。半袖から覗く細い腕。しかし水鏡に映ったその腕は、肘から先がすっぱり失われている。肘はゆで卵みたいにつるりと丸まっていて、手術で皮膚を縫合した痕が走っている。
 私は、二年前ほど前に肉の左手を失ってしまった。その代わりに、「障害者」というある種の個性を手に入れた。建前はともあれ本質的には没個性が求められる昨今、社会生活を営む上で一文の得にもならない個性だ。
 しかし――どんなモノであれ、何かしら必要とされている場所はあるらしい。
「そのお鉢って、どこから回ってきたのかすごく気になりますね」
 空元気。益体のない皮肉を言いながら、私は歩きはじめた。左二の腕をぎゅっと握り締める。映し身を見てしまったせいか。胸の裏側にもやもやとした澱みが生じ始めていた。
 それは予兆だった。
 左手が痛み始める、予兆。
 ……油断していたせいで厭なものを見てしまった。左腕から目を逸らす。
「まあ、それは秘密だよ」
「まあ」という接頭語が口癖の彰俊さんは、ははは、と笑い声を発する。けど顔があまり笑っていない。不気味だった。……不気味に思えた。
 些細な、何でもないはずのことが、胸の澱をより粘着質なものへと変質させていく。
「……それで、今日は何をするんですか?」
 なんとか会話を続けようと、してみる。
「昼間の内に言っておいたと思うけど、敵情視察といったところだね」
 駄目だった。
 膨れていく。膨れていく。
 澱は肥大していく一方で、どうしようもない空虚さで私を体内から圧迫する。
 そうなると私という意識は肉体から押し出されるように遊離を始めるしかない。
 それは「遠い」とでも表現されるべき感覚。
「被害者達をあそこまで『走行』という行為にかりたてさせたものが一体なんだったのか。それをまずみきわめるひつ要がある。いつもの手じゅんだね。はんぷくしようか。そのつぎはげんいんそのものをこんぜつするひつようせいガあるから、なにをもってソれが」
 聴覚が意識と繋がらなくなる。身体から半ば出てしまった私は自分の後姿を斜め上から俯瞰する様相となり、いつのまにやら寒さや匂いも切り取られたように感じなくなっていることにぼんやりと気づいて――

 左手が、痛み始める。

 それに気がついたのは、彰俊さんが先だった。
 何か言われた。言葉の詳しい内容は理解できなかったけど、「対象」が現れたのだという意味であることは、状況で分かった。
 この空気、この雰囲気。どう表現したらいいだろう。
 あえて言うならば――この夜は、昏い。
 今までただ暗かった夜の底は、痛みの予兆が膨らむにつれ、昏い闇に置換されてしまった。
 白々とした街灯の明かりは絵に描いた餅のよう。
 アスファルトは分解されてコールタールを張ったよう。
 そぼそぼと立ち並ぶ家々は張子のよう。
 満月は夜空のスクリーンにぽっかり穿たれた穴のよう。
 私の遊離した感覚は、今宵の空気をそのように誤認する。
 そうして私は、一切合切が混迷した昏い世界の中に、その主を見出していた。
 ――曲がり角の向こうから、人影が走ってくる。
 月明かりに曝されているはずなのに、その姿はようとして闇に溶け込み、容貌が分からない。
 また何か言われた。目は視ないように、と念を押された気がする。人影はジョギングにしては早すぎる速度でこちらに迫ってくる。上下に揺れる体。頭はぴたりと固定されたようにぶれることがない。その中心に爛々と輝く二つの兇眼が鎮座ましまし、私は視界を固定されて動けない。
 念を押されたところで遅かった。
 私は、出会い頭にそれと視線を重ねてしまっていた。
 風を切る音はなく、その人影が私達の脇を走り抜ける。私はゴールテープになった気分だった。見えない糸に引っ張り手繰られるように、人影の方向へ身体ががくんと撥ねた。こける。
 希薄な感覚を動員し、足を踏ん張った。地面に倒れるのは回避できたけど、たたらを踏んだ足はなぜか止まらずとっとっともつれるような動きからたたたと走るモーションへ移行する。
 彰俊さんの大声が聞こえた。
 大きな彼の手が私の手首を掴もうとしたけれど、するりと滑って逃れてしまう。
 気づけば私は人影のすぐ後ろを、いっしょに走っていた。背後からも追いすがるような足音。これは彰俊さんだな。何が起こっているか飲み込めていないくせに、私は妙に冷静だった。
 ぐん、と人影が速度を上げる。それに伴い私の体も動きを激しくする。彰俊さんは簡単に振り切られてしまう。足音は一人分しか聞こえなくなった。一人分だ。
 耳に入ってくるのは私の足音だけ。
 昏い夜の闇を凝縮したような人影は――無音で走っていた。
 直感で理解する。
 この人影は、生きた人間ではない。
 生前の動作を模倣しているだけの――

 ……恥ずかしながら、そこから先のことはほとんど覚えていない。
 速度が際限なく上がっていって、
 全身が引き千切れるような苦痛の中、
 いつまでも走り続けていた。
 そんな印象が、ぼんやりと確認できるくらい。
 身体の支配権は完全に人影に移行していて、左手一本動かすことさえままならなかったように思う。

 次に目覚めた時は周知の通り、事務所のベッドの上だった。

  


 その日は何も感じなかったのだけれど、翌日になってそのツケが一気に来た。
 早い話が全身筋肉痛である。
 元々私の体は、一点を除いてごく普通の女子高生のものだ。中学生の頃から体育系の部活で鍛えているわけでもなくて、さすがに数十キロナイトマラソンには耐え切れなかった。
 家のベッドで目覚めた瞬間に「今日学校へ行くのは無理かな」と思ったんだけれど、そんな堕落心を矯正する要因が二つ。
 母親の目と、いつの間にかパジャマのポケットに忍ばせられていた、二枚の紙切れだった。
 方や何かエキゾチックな筆遣いの文様が描かれていた。これは目だろうか。彰俊さんはオカルトグッズを事務所のロッカーにたくさん収集していて、その多くは実用性(!)のあるものだ。多分これは、治癒祈願のお守りか何かだろう。
 心遣いが少しだけ嬉しかったけど、
「…………」
 もう方や、鉛筆で殴り書きされたメモに目を通す頃には「ああやっぱりな」という心境だった……
 以下は殴り書きの文末引用である。
『この件は今夜中に始末をつけるから、ちゃんと情報収集してくること』
 ……あくまで怪我人を酷使する腹づもりなのだった。
 私は左肘をなでると、今日一日やるべきことを整理する。
 学校行って、帰りに病院に寄って。その後事務所に行く。後、何かあっただろうか――

   *

「高峰君、まだ行方不明らしいね。陸上部の人たちも総出で探してるみたいなんだけどね、見つからないから……諦めかけてる子もいるらしくて」
 ――体調が悪い時に学校へ行く、というのは苦痛以外の何事でもない。
 それを私は日ごろから実感している。
 ぼんやりしていれば感覚が他人事のように現実味を失うし、左手が痛かったら何も考えられなくなってしまう。
 それでも私が不調なのは日常茶飯事のことなので、いつしかその苦痛になじんでしまっている自分がいる。
「あたしの友達に陸上部のマネージャーがいるんだけど、ほら、わかる? 上馬場さん。部内恋愛は禁止だから秘密にしてたらしいだけど、実は高峰君とつきあってたんだって」
 ……が。
 今日の不調は、それまで私が身近に感じていた苦痛とは一味違った。
 たかが筋肉痛とあなどることなかれ、何事も度を越すと恐ろしいことになる。
「上馬場さん、高峰君のご両親とも何度も連絡取り合って、警察にも通ったりしてるみたいなの。……ホントにやつれてて。ああいうの半狂乱っていうのかな。見てるこっちが辛くなってくるくらい」
 そもそも筋肉痛の原因は主に二つあって、それは乳酸と炎症なんだけど、前者は運動のしすぎによって筋肉に溜まり、後者は普段使わない筋肉を使ったために筋繊維が損傷して出来るわけで、結局はどちらも運動不足から起こるものなんだけど、逆に言うと運動不足で済む程度の運動をするからただ「痛くてキツい」程度で終わるのであって、走りすぎで死ぬ一歩手前まで無制限マラソンを強要された私は「痛すぎてキツすぎて心臓麻痺が起こりそう」な状態であって、ああ、そろそろ疲れてきた。
「就業外労働手当、ほしいなあ……」
「だから……え?」
 疲れていたものだから、思考が言動に漏れてしまったらしい。それまでおしゃべりをしていた声が、不審そうに私に注目した。
 そこは2-Cの教室だった。放課中は授業をやっていようとなかろうと騒がしい生徒達の牢獄は、放課後になればあの喧騒が夢幻のようなわびしさを醸している。
 その中で私は陸のナマケモノのごとく机に突っ伏していて、頭を上げれば一つ前の席に――目をきょとりとさせている東屋裕子さんがいた。
「あ、ごめんね、なんでもないから」
「就業外手当て……千夏ちゃんってバイトしてたっけ?」
 はて、と東屋さんは首をかしげる。えーとあの、その質問には大変答えずらいのですが。私のやってることはある意味身売りに近いものがあるんだけれど、備品だし、ああでも身売りというのも語弊を招きまくりな表現で、混乱した思考を言葉に出すことなぞ当然できるわけもなくどうしたものかと困ってしまう。
「んー……」
 そんなこんなで私がテンパっている内に、東屋さんは一足先に状況を把握したらしい。「しょうがないなあ」的な笑顔をほわっと浮かべた。
「もしかして、また話聞いてなかった? 今日はどこに思考が飛んでたの?」
「うん、ちょっと、寝不足で。あと筋肉痛が……」
 昨日の疲れが絶望的なまでに取れてないため、私の返答はどこか噛み合っていない、ような。その様子を見てさらににこにこ笑顔な高池さん。柔らかなくせっ気が肩口の辺りで揺れている。
「チョモランマあたりまで飛んでそうだねー」
 うん、よくわからん。でもこのキャラで皆から好かれてるんだから、かわいい子は何言っても許されちゃうんだろうなあ。
 だって、こんな何でもないことで嬉しそうにしてくれるのだ。
 こっちだって笑わないといけない気がしてくる。
 私がぎこちない笑みを浮かべると、東屋さんはついに声に出して笑い始めた。きゃらきゃらと教室に沁みていく。
 苦笑いであってもするべきだ、と最近の私は思う。嘘でも笑っていると、そのうちそれが本当になるから。
「筋肉痛に寝不足って、何してたの? 夜通し筋トレとか?」
 ふざけあいがひと段落ついたところで、東屋さんは心配そうに訊いてくれた。
「似たような感じかな。もっとタチ悪いかも。……強制労働だったし。ちょっとキツい」
 本当はちょっとなんてものじゃなく、身体が動かないことおびただしかったのだけど。学校についてからはただ椅子に座っているだけでよかったけど、登校過程がもう正気の沙汰じゃなかった。詳細は想像にお任せ、ただし私は片腕ということをお忘れなく。それが身じろぎするだけで激痛が全身をほとばしるのである。着替えるのがまず悶絶モノ、玄関先で靴紐結ぼうと転げ回れば親に変な目で見られるしそうしてる内に時間もなくなるし一体どうしろというのか。ていうか身支度くらい手伝って欲しい。
 身体が言うことをきかない、なんてことには慣れっこな私だけど、これにはさすがに辟易した。
「あ、今日一日調子がおかしかったのはそのせい?」
「うん」
 思い出すだけで気が滅入って、ちょっとだけ投げやりな返事になってしまう。
「……もしかして」
 東屋さんの顔が、ちょっと引き締まった。
「深沢とかいう人と、また何かしてるの?」
 投げやりな返事は、今度は出来なかった。私は言葉を探して、喋るタイミングを逃してしまう。
 が、東屋さんが口に出したのは私の想像の斜め上を行くものだった。
「あの人、暴力団関係なんでしょ? ……こういうのもなんだけど、あんまり関わらない方がいいよ。毎日事務所に行くなんて、普通じゃないよ千夏ちゃん」
 ……さらに口を出しあぐねてしまう。彰俊さんが「事務所を持っている」という切り口でそういう方向に想像を膨らませてくれるなんて。というか、彼女はあの殺風景な事務所からどうやってマル暴を連想したんだろうか。――もしかして彰俊さんが勘違いするような何かを吹き込んだのか。ありえる話で笑えない。
「ん、でも千夏ちゃんはあんまり普通じゃないから、それが普通なのかな。……あれ?」
「東屋さんって、面白いよね」
「え、なんで?」
 きょとんとした顔。分かっていないあたりがほほえましい。彼女からすれば、私もほほえましいらしいけど。何にでも良い所を見つけられるのが、彼女の長所でもあり、損な短所でもある。
 私なんかに良い所を見出してしまったがために、彼女――東屋裕子は、生き死にに関わる事態に巻き込まれたのだから。
「なんとなく。そういえば、他の子達はどうしたの?」
 笑顔を原動力にぎりぎりと体を起こすと、お茶を濁して話題を変える。
 私は二ヶ月前まではあまり仲の良い友達がいなかったんだけど、事情があって今は東屋さんのグループにくっついている。私は放課後になると大抵彰俊さんの事務所に行ってしまうんだけれど、東屋さんと仲良くなって以来、事務所に行く時間が遅くなった。
「千夏ちゃん、辛そうだったから。保健室に行ったほうがいいんじゃないって明子ちゃんとかも言ってたんだけど、千夏ちゃん全然動かなかったし。まな板の上の鯉みたいだったから、みんなには先に帰ってもらったの」
 板上の鯉とは、なかなか怖い表現を使ってくれる。受け取りようによっては彼女の微笑みがとんでもなく邪悪に見えてくるから不思議だ。
「じゃあ私に付き合って残ってくれたんだ。ごめんね」
「気にしないでいいよ。……千夏ちゃん今日、病院の日でしょ? あたし花粉症だから、今からお薬もらっておこうと思うの。いっしょに病院行こうよ」
「あ、そっか。……ついでに、筋肉痛も見てもらおうかな、病院。湿布もらわないときついよ」
 でも、その提案はすごく嬉しいんだけれど、今日は他に学校でやるべきことがあった気がする。
 彰俊さんのメモだ。あれには何て書いてあったんだっけ。記憶を探りながら、私は窓の外を見た。それなりの敷地を誇る私立二芝高校は立派なグラウンドを持っていて、夏になると忍び込んで花火をやらかす人たちが絶えない。
 そんなグラウンドでは、放課後の部活動に精を出す生徒達の姿がある。まるで蟻のように。
 ――ああ、そうだ。
「そうだね。いっしょに行こ。その前にちょっといい? あ、病院に行きながらでいいんだけど、聞きたいことがあって」
「じゃ、行こっか。で、どうしたの?」
 東屋さんに手を借りて席から立ち上がると、教室を後にしながら要件を話す。
 すると、彼女はいつものくすくす笑いをもらすのだった。
「さっきその話したじゃない。やっぱり千夏ちゃん、話聞いてなかったのね」
 そして一転、これまでの会話が嘘に思えるくらい、真剣な顔つきになる。
 それは、どこか悲哀の混じった真摯さだった。
「陸上部の部長さんのね、高峰君が行方不明なの」

  


 病院、というのが私はあまり好きじゃない。
 言いたくもない本音を、お医者の前で言わなくちゃならなくて。
 いかがわしい薬をもらって。
 そこまでして、私という存在に何か変わりはあるんだろうか?
 そういうのってかなり苦痛だし、地震から二年間病院に通い続けてるけど、私は自分がよくなったとは思わない。何をもって「よくなる」のかすらよく分からない。
 でも親は、私が学校や病院に通い続けることで「よくなる」と思ってる。学校には近頃やっと意味を見出せるようになってきたけど、病院は未だに何で通っているのかさっぱりわからない。
 それに、学校へも病院へも本当は行きたくない。
 私みたいな異分子が、普通の人が集まるそれらの場所に混じり込んでもいいんだろうか。そう思ってしまう。……そういえば、ちょっと話がずれるけど、今日の放課後、教室からグラウンドで部活してる人たちを見て蟻のようだと思った。
 例えばの話。私達は、下等生物を無意識に下階層の存在として見下している節がある。生殺与奪権を持っているからだし、私達には理解できないような体つきをしてるから。
 そのカトウセイブツからすれば、人間はどうなんだろう。雀蜂なんかからすれば、人間は異形の生物だと思う。そして、彼らは人間に対して猛毒による生殺与奪権を持っている。
 自分より下だと思っている存在が、実は自分より上等っていうのは、よくあることだ。よくあること。
 だから、私が蟻のように思った人達は、その実私よりよっぽどすばらしい生き物なんだと思う。私が見下すのがおこがましいほどに。
 人間じゃないのは、私の方だ。
「――なるほどなるほど。近頃はそういったことを考えているわけね」
 私がつまらなさそうな表情で語った言葉を、カウンセラーさんは無難に受け止めてくれた。
 そこは、総合病院の一科でありながら、薬品臭が染み付いていない気持ちのいい場所だった。彰俊さんの事務所と同じくらいの広さに、事務所のものよりよっぽど上等な応接セットが一組。奥の壁ぎわにはデスクが寄せられており、ノートパソコンや資料の束が広げられていた。
「いっつも被害妄想ばっかりですみません。本の読みすぎなんでしょうか」
 私はやはり、つまらなさそうに謝る。
「あはは、吉岡さんは本が好きだものね」
 カウンセラーのお姉さんは、机の上で手を組み直した。よく手入れされた手だと思う。肌荒れはしていないし、爪にはさりげなく透明のマニキュアが塗ってある。大人の魅力だな、とそんなことを考えた。野暮ったさが抜けない私とは大違いだ。
「……そんなことないわよ、大丈夫。ここはそういうことを言うための場所なんだし。
 でもあれね、吉岡さんはここに来るとつまらなさそうな顔をするのね。友達といる時はまだ楽しそうなのに。やっぱり病院が嫌いだからかしら?」
 う。もしかして待合室で東屋さんといっしょにいたところを目撃されたのだろうか。
「この顔が地ですから」
「そんなこと言わないの。女の子は笑った時が一番かわいいのよ?」
 そんなことを言うのはカウンセラーのキレイなお姉さん。逆にみじめな気分になってきて困るのだけれど。
 ……彼女の言うことは正しい。無理やりにでも笑顔を作っておけば、それはそのうち――というのは最近実感したことでもある。
 それでも、私は病院じゃ笑う気が起きなかった。
 私がさらに憮然としていると、カウンセラーさんはこの話題は潮時と判断したみたいだった。さりげなく切り口を変えてくる。矢継ぎ早に話題を変えるのが彼女のスタイルらしい。とにかく数を出して反応を試し、乗ってきた話を糸口にして治療を進めるつもりなんだろう。
「で、さっきの話なんだけど、ちょっといいかしら。その話だと今日、学校で発作が起きたの?」
「……どうなんでしょうか」
 私は今日一日の自分の様子を思い返し、考えながら話す。
「さっきも言いましたけど、今日、すごく体の調子が悪くて。朝はどうしようもなく辛かったんですけど、授業受けてるうちに、段々、こう……体調がキツくてへこたれている自分を……なんというか、あれです。いっつものやつ。多分、起こってたんだと思います」
「あなたの言う、体と心がうまく繋がってない感じ? 前言ってたわよね。自分を後ろから眺めているような、って」
「はい」
「正直、今もちょっと起こってたりするの?」
「――そうですね」
 返答は機先を制して短く。それは黙秘権の行使に似ている。
 しかし、私の意思表示に反してその質問が来た。
「じゃあ……今日は、左手の調子はどう?」
 私には、肉の左手がない。
 肘から先は失われていて、左腕の断面はゆで卵みたいにつるりとしている。
 彼女が言っているのはそういうことではない。左腕の古傷が痛まないか、とかそういうことでもない。痛むか否かというのはそれなりに本質を捉えた質問だけれど。
 この質問には黙秘権が用意されていない。
 だから、私は左腕の方を視ないといけなかった――いつもは目をそらして、決して視まいとしているそれを。
 十秒かけて、オイルの切れた歯車みたいなぎこちなさで。
 視線を左手に落とす。

 ――「幻影肢」と呼ばれる症状がある。
「幻肢」あるいは「ファントム」とも呼ばれるそれは、脳の異常によって起こるとか、精神的外傷によっても発生するとか色々研究されているが、発生のメカニズムそのものはまだ解明されていないらしい。
 しかし、原因が分からなくても現象は解析できる。
 名称を見るだけである程度予想がつくかもしれないが、幻影肢とは体の一部が失われた後も、それがあるように認識してしまう現象だ。
 医学的な見地から説明すると、こんな感じだ。
 人間が自分の体を認識し、動作させるために必要な要素に「身体図式」というものがある。
 目を閉じてもらえば分かると思う。
 健康な人は、真っ暗闇の中でも自分の体が確かにそこにあることを認識できて、自在に動かすことができる。そんな時、瞼の裏に体のイメージを明確に描くことができないだろうか。
 身体図式とは、乱暴に要約してしまえばそのイメージのこと。
 幻影肢の患者には、肉体のイメージである身体図式と実際の肉体との間に齟齬が起きる。
 例えば、私のケース。左手が肘から先、失われてしまったのだけど、私のような幻影肢患者の場合、肉体の欠落をイメージである身体図式に認知されないのだ。
 ただ認められないというのならまだいいのだけど、身体図式は頭の中にあって、頭とはすなわち全ての感覚を受理し、体験する場所だ。
 欠落を認めたくない脳は、今までの経験を引っ張ってきたり、感覚器官からの入力があるかのように振舞ったりして、身体図式を補完してしまう。
 結果――存在しないはずの左手を感じられる、というおかしな事態が起こる。
 目を閉じれば今でも左手が存在するように動かすことができるし、人によっては視覚的にも認識できてしまう。
 だから――

左手≠ヘ、いつもの通りそこに存在した。
「いつもと、あまり変わりないです」
「やっぱり妙な形をしているの?」
 そのことに言及されるのは、苦痛だった。膝の上に置いた右手を握り締める。そして、こんな強い感情をリアルにうけいられる程度に、自分の精神が器に留まっていることに安堵した。
「……はい」
 短く答え、左手を一瞥した。視界に入っていたのはほんの一瞬だったのに、その映像は脳裏に焼きつく。身体図式として私のイメージに刷り込まれているからだろう――
 いや、そんな理屈は抜きにして。
 一度見れば忘れられないほどに私の幻の左手は異形だった。
 ぬらぬらとした光沢を放つゲル状に近い表面は、見てくれだけでもう人間の皮膚じゃない。赤黒い色をした幻影肢は、鬼のそれを移植したように大きく、節くれだっている。私が立った状態でも地面、に尖った爪の先端が触れそうなほど長い。
 当人の脳が作り上げている幻想なのだから、そのあり方は現実の人間のそれと同じとは限らない。人は幻覚を、ありえないものを見る生き物である。その典型が、私のこの手だった。
 椅子に座っている今、腕は床に投げ出されている。見なくても分かった。私の一部なんだから。
「――――」
 左肘が痛む。それは火傷の疼きに近い。
 断面を押さえたくなったが、出来ない。幻影肢が現れている今、左肘は幻影肢に覆われて見えないだろう。幻影とはいえ、私の心は実際に存在する腕として見なす。だから肉の患部を押さえることができない。酷い矛盾だった。
「……うーん、そっか。最近はあんまり起きないって言ってたのに――吉岡さん、調子が悪い?」
 しばらく続いた沈黙の末に、私がむずがりだしたからだろう。カウンセラーさんはそれまでの気さくな仮面を外し、私を案じてくれる。
「大丈夫、です。ちょっと左肘が痛くなって」
「ああ、ごめんなさい。発作が酷くなってきたのね。今日はこれでおわりにしましょうか」
 カルテが綴じられたファイルが、キレイな手でぱたんと閉じられる。
「筋肉痛だっけ? 内科でお薬もらったら、それつけて今日は早く寝た方がいいかもしれないわね。
 心体同一、健全な魂は健全な肉体に宿る。
 吉岡さんは若いんだから、よく食べてよく寝るのがいいわ」

 ――それは、カウンセラーとしてはあまりに不用意な言葉だった。

「はい、分かりました」
 何かが私の口を使って代返した。表情が、鉄に浮き出た錆のように偽物へ代わる。
 私の体は、私の意思を少しも反映しなくなる。
「じゃあ、ありがとうございました。失礼します」
「はい。また来週」
 カウンセラーは、あのキレイな手をたおやかに振る。その光景に背を向けて、私が精神科を後にした。
 おぼろな体に抱えられた心が生ぬるく冷えている。
 左手が、千切れそうな程いたい。

   *

 ――私の体が自動ドアを出た。
 ねとついた午後の空が、蛙汚く蛙汚く地面をそばめ。道はコールタール、其処行く唯人は捕まった蟻かのよう、猛鉄の車が沈みを追って消える。そんな遠景。背中に張り付く私はそれを見て、
 だがしかしだがしかし、それはおこがましい。真に唾棄すべきは私である。
 すると怨嗟が聴こえた。あるいは孤愁。
 左手がいたみを増して、私はおかしなところへ繋がる。
「痛い。異多い。」
 胎内で何某が異多みを訴える。よって駆除しにいざ行かん。
 薬の袋がかさかさ哭いた。役立たずは放って棄てる。
 薄っぺらな昏闇の小路に、ぶっとい陰。
 怨嗟と孤愁は嫉殺と縁喜に。
 体と陰が交わす戯言はなく、求め合うのはただ肉心。
 私はただ一言「屠まれ」と――

「千夏ちゃん、こんなとこで何してるの?」

 刹那、境界が隔たれた。

 ……そこがどこか、一瞬分からなかった。
 昏――暗い路地裏。自転車一台を押して入れるのが精一杯の広さだ。鼻を突く悪臭は、逆流して溝から溢れているヘドロのせい。
 何度か来たことがある。総合病院のすぐ脇から奥に入れるのだ。壁面は垣根やブロック塀ではなく、建物の壁のみで構成されている。道というより隙間と言った方が似合ってるほとんど忘れ去られた場所。こんなところに立ち入るのは、浮浪者くらいのものだった。
 その中で私は、細長く切り取られた青空をぼんやり見上げていた。
「……千夏ちゃん?」
 訝しげな声に目線を水平に向けると、
「――東屋さん」
 逆光でシルエットしか視認できなかったが、路地の入り口に東屋さんが立っていた。
「どうしたの、こんなところに入ってきて。猫でもいたの?」
 猫を見つけたからといって、こんな怪しさ不潔度共に全開といった場所まで入り込む女子高生は稀だと思う。少なくとも私はやらないぞ。
 そんな突っ込みを内心で済ませて、とりあえず目をこすってみる。
 ――私は精神科を出た後に内科でさらに診察を受け、処方箋を院内の薬局に持って行った。薬を片手に病院の外に出て、そこで東屋さんを待とうと思った。それから、それから。
 覚えているし、全部リアルタイムで体験していた。私はトめたのだ。けれど一連の行動に実感が伴っていない。行動は覚えていても、どういった心理の推移の結果そこに至ったのかが分からない。
「千夏ちゃん? もしもし、大丈夫? 表情硬いよ? なんか……能面みたい」
 私は傍観して得た情報をかき集めて、何が起こったかを理解する。
 ……要するに、感応してしまったわけだ。
「ううん、平気。いつものことだから、なんてことないよ」
 首を振って見せる。東屋さんは「うわ、なんか匂うよここ」とかすかに嫌悪の混じった様子で路地に踏み入ってくるが、私は彼女をこの場所に長居させたくなかった。
 彼女が不快感を抱いている原因は――恐らく、ヘドロの腐臭だけではないから。
「ごめん、本当は病院の前で待ってるともりだったんだけど。ちょっと気になることがあってこっちに来てたんだ」
「あ、そうなんだ。どうしたの、やっぱり猫? あ、はいこれ。お薬落としてたよ。よっぽど気になることだったのね」
「ありがとう……東屋さん、猫好きなの?」
 会話を前後させながら薬の袋を受け取ると(多分、路地の入り口辺りに落としていたんだろう)、私は東屋さんの背中を押して路地の外へ誘導する。
「さ、行こ行こ。ここ何だか不気味だし。――幽霊とか出たら嫌だよ」
 冗談めかして本音を告げた。もっともさっき私が消してしまったから、そんなものはもういないのだけど……安心はできない。ここの空気は、物質的にもそれ以外の意味でも淀んでいた。
『病院や寺みたいにね、人間の死が不自然に蒐集された場所があるだろう。そういった場の近くには尋常でないモノが集まりやすいし、生まれやすい。鬼門になっているんだよ』
 とは彰俊さんの言。
 彼女までこの場所に染められてしまったら――
 あまり楽しい空想じゃなかった。

   *

「そういえば、なんであの道に入ったの?」
 ――私たちは路地裏から抜け出した。
 そこは病院がある表通りである。
 日は傾きかけていて、
 世界のあちこちに影が差し始めていた。

ねとついた午後の空が、
蛙汚く蛙汚く地面をそばめ。

 道行く人は少なく、
 仕事に追われた人々が車を走らせる。

道はコールタール、
其処行く唯人は捕まった蟻かのよう、
猛鉄の車が沈みを追って消える。

 そんな遠景。
「――――」
 私は背中ごしに観察していた時に認識した情報とそれらを照らし合わせて思う。
 ――なんて近い世界だろう、と。
 今私が見ているこの風景のリアルさは確かなものに見えた。
 感覚している私の体も正常だった。
 帰路を歩くと体中の筋肉が乳酸と炎症で痛みを訴え、それが不快感として、意識まで滞りなく届く。
 それは嬉しいことで。
 だというのに東屋さんは、水をさすようにそんな問いを投げかけてくる。そこには一片の悪意もなかった。
「――健康な肉体には健康な魂が宿る」
 なので、つい口を滑らせてしまった。
「え?」
「あの言葉って、何なんだろうね。そもそも健康な魂って何? どうやって健康不健康の判断をするんだろ」
 そもさん。しかしせっぱは来ない。
 私は喋り続ける。
「体が病気だとか、不調だとか、そういうのはとってもわかりやすいと思う。でも、心の不健康って何? 余裕がなくなって切羽詰ってると不健康なの? 他の人から見ておかしなこと言ったり、妙な行いを始めたら不健康なの? その人にとってはそれが至極真っ当なことかもしれないのに」
 私は心理学や神経学には暗い。自分の症状について調べたり診断されたりして多少知っている、その程度だよ。けど、
「あの人たちの判断基準って、よく分からない」
 ふと思った。そもそも健康な魂が健康な肉体に宿るなら、逆説的にこうは言えないか。
 健全でない魂は、肉体という檻に囚われることはない――と。
 ああ。それは、私にぴったりな表現じゃないだろうか。
 この左手は。
 肉体に収まりきらなくてはみだした魂そのものだ。
「……あたしにもよく分からないけど。千夏ちゃんは、人の心を差をつけて扱うことはおかしい、って言いたいの? それなら、あたしはそうは思わない。だって、」
「違う。差別と区別の違いくらい、私も分かってるよ。そうじゃなくて」
 前提が間違ってるの。差別とか区別とかって、同じカテゴリの集団の中でされる線引きじゃない?
 ――私を見てよ。視えないだろうけど。
 これ、まるで人間の手じゃないよ。
 それならさ、その手が繋がっている私も、その手をそんな形に認識している私だって、人間じゃない。
 私はただ「左手がない人間」なだけじゃない。普通の人は本質じゃなくうわべだけしか視れないから、私の扱いはこの程度で済んでいる。
 しかし。あの人たちの治療ってやつは、「普通」と「おかしい」を線引きしてしまう。
 そんなことされたら、羊の群れの中にうまく擬態して混じっている狼は、いつか本当の姿を――
「そういうことを考えてて、あの道に入ったの?」
「……うん」
 その部分だけを抜粋して話すと、我ながら意味不明である。それに道に踏み込んだ理由にはなっていなかったが、私は全てを語ろうとしなかった。理解されないだろうし、してほしくもなかった。
 んー、と東屋さんは唇に人差し指を当てている。どう言葉をかけたものかと悩んでいるようだったけど、その表情には嫌悪感とかそういう悪感情の類は一切感じられなかった。
「千夏ちゃんって、普段はなんでもないみたいな顔してるけど、いつも割と小難しいこと考えてるよね。それをもっと表に出していけばいいのに。いっつも言ってるこーとだーけどーっ」 
 重い雰囲気になってしまったのを気にしたのか、東屋さんは茶化すように語尾を伸ばして笑った。それは実のところ茶化しじゃなくて、気遣いだった。
「わっ!?」
 ぐい、と隣を歩いていた東屋さんに引っぱられる。ぎちりと全身の筋肉が痛みを訴え、意識が一瞬断線する。
 何が起こったのか理解した時には、私は左二の腕を東屋さんに抱き寄せられていた。
「あんまし深く考えることないよ」
 顔がとても近い。体温が空気を介して伝わってくる。彼女愛用のリンスとか、ほんのり頬に載せているファンデーションとか、ふわりとしたいい匂いがする。私にはない、カウンセラーさんにもなかった思春期の色香が感じられる。
 それらは、とてもリアルだった。
「結局ね、千夏ちゃんは千夏ちゃんだとあたしは思うの。良いも悪いもぜんぶひっくるめて吉岡千夏その人。あたしはそんな千夏ちゃんが好きだよ。……ただの理想論、って言われちゃうかもしれないけど、誰でもそうだと思う。魂とか、何が健康だとかさ。気にしなくちゃいけないことなのかな?」
 あ、千夏ちゃんとおんなじこと言ってるね。そんな声が耳元に届く。柔らかそうな唇が、ささやくように動いている。体の痛みが遠のくが、それは発作のせいじゃない。同性なのに、一連の行動に私はどきどきしてしまう。
「千夏ちゃんが今言ってたことって、結局そうじゃない? 人それぞれ、みたいな」
 ――なるほど、そう取ることもできるかもしれない。
 東屋さんは、ぱっと左二の腕から手を離した。
「ごめんね、筋肉痛だって言ってたのに。痛かった?」
「ううん……そんなことないけど」
 煙に巻かれたような気分になって、私は黙り込んでしまう。東屋さんの行動も、言っていることも。
「筋肉痛の痛みで発狂死って笑えないよね、ごめんね……なんか、納得いかないって感じ?」
「うん」
 顔に心境を出しているつもりはなかった。もともと私という人間は、感情がろくに外に現れない性質らしい。
 東屋さんはお見通しらしかった。とぼけているようで、彼女の観察眼は鋭い。
「だからね、心構えの問題だと思うの。やけくそにならないで、まず自分のことを受け入れようとしてみるの。受け入れられなかったら、嘘でもいいから受け入れたつもりになるの。そうすると、少しだけ楽になれるよ」
 ――それは。
「……嘘でも笑ってたら、いつかそれが本当になる?」
「そう、そう」
 そして彼女は屈託なく笑い、
「……あれ。そういえば、最初は何の話してたっけ。どうしてこんな話になったの?」
 と、どうにもしまらないオチを付け足してくれたのだった。
 ――私はいつも、自分が大事だと思ったことを一時の辛さで見失ってしまうようだ。
 見失った物を見つけ直してくれる東屋さんは、すごく大事で、まぶしい存在だ。
 カウンセラーさんには悪いけど、病院よりこっちのほうがよっぽど効果的だ、なんて打算を考えてしまうのだった。

   *

 ……そういう風に、感情では分かっていながらも。
 理屈では納得できていない自分がいる。
 東屋さんの言っていることは、すごく大切なことなんだと思う。心に沁みてくる言葉だった。
 けど。それらのことは、どこか遠かった。
 私は――違う世界の住人なのだった。

  


 東屋さんと別れた後、私は事務所に向かった。

 夕暮れのオフィス街は、会社帰りのサラリーマンで溢れていた。
 少し周囲を見回せば、某有名会社の系列の事務所があったりする。その一角に、そのビルがある。一昔前の建築物ということが一目で分かる外見。
 正面玄関の案内パネルを見れば、五階建てのテナントビルには様々な事務所が名を連ねている。職種はてんでばらばらで節操がない。
 こういうビルの地下一階というのは、大抵駐車場になっている。ところがここの地下には、代わりにこんな名前の株式会社が入っている。
『中澤建築(株)』
 中澤、というのはビルのオーナーの名前でもある。それは全くの偽名ということを私は知っていた。ていうかあの人何者なんだろう。
 エントランスに踏み入り、エレベーター横の地下へ続く階段を降りていく。すべらかな動きのドアを開けば、そこにあるのは彰俊さんの事務所だった。
「彰俊さん、いますか?」
 私は遠慮がちに声をかける。
 ――その事務所は、本当になにもなかった。
 八畳ほどの空間。その中央には応接セットが設置してあって、壁の一面にはロッカーが固定されてある。学校とか駅にあるような七×十、計七十の個室を隔離した収納、鍵付。そこに大抵の備品は収納されている。後は、うっかりクラシックでもかけたら転寝してしまいそうなほどなめらかな音が出るオーディオ。それ以外には全く何もない。
 清潔というよりは殺風景。
 殺風景というよりは空虚。
 整理整頓に掃除好きにしては、ちょっと病的かなあと思う。
 その景観に唯一生活感を与えているのは、ガラスのテーブル上に居座っている灰皿くらい。こんもりと吸殻が盛られている。彰俊さんは、灰皿だけには無頓着なのだった。
「……あれ?」
 その灰皿の横に、普段の事務所にない物を見つけた。
 なんてことはない、一枚の地図。二芝市周辺の地理が細かく記載してある。
 その一部に、×マークが六つ打ってあった。それぞれの脇に漢字の羅列が振ってある。人名だ。
 一つ目、松沼孝雄。
 二つ目、横井慶介。
 三つ目、安藤里香。
 四つ目、林卓也。
 五つ目、菊池正樹。
 六つ目、……吉岡千夏。私の名前だった。
 内四つが隣町との境付近の人気のない地域に振られており、五つ目の×は隣町のインターチェンジにかぶさっていた。六つ目は私達が昨日、アレと遭遇した地点みたいだ。
 とするとさては、今回の件の被害者リストなんだろうか。私の名前まで被害者に連なっているあたり、彰俊さんは趣味が悪い。……名前が六つしかないことに、安堵と不安を覚えた。
 ざっと目測してみると、六つの×は半径二十キロほどの円を描くように穿たれている。彰俊さんはその円の中心を求めようとしていたらしくて、定規やコンパスで引かれた線が幾条も走っている。
 ただ、彼が探した中心点は、求められなかったらしい。
 円の中心点なら既に求められていたけれど、穿たれていたのは自動車専用道路のど真ん中だった。試行錯誤の痕跡から察するに、人の足で行ける中心点を求めたかったらしい。
 それを測るためには、あと二つか三つ×が必要みたい……なの、かな?
 地図を見ながらあれこれ計算していると、ばたんと扉を開ける音。
「やあ、ソーギじゃないか」
 奥の宿直室から出てきたのは、彰俊さんである。
「こんにちは、中澤さん」
 軽く突っかかってみた。理由は……自分の名前が亡き者同然に扱われていたことが気に入らない、ということにしておく。
「その名前も悪くはないんだけど、よかったら本名で呼んでくれないかな」
 しゃあしゃあと口にしながら、CDをオーディオにインサート。
「人のこと言えませんよ。私も、ソーギって呼ばないでくださいっていつも言ってるじゃないですか」
 ジャズが流れ始めた。私はロッカーを気にする。少しだけ安心する。
「あー、じゃあオカキ」
「崗木(おかき)は旧姓です」
 だいたい、なんでソーギなんだろう。いや、理由は分かるんだけど、そっちじゃなくて。
「なんでそっちこそ、名前か苗字で呼ぼうとしないんです?」
「だって、君は自ら備品を任じているだろう? 備品である以上、人名で呼ぶのはどうかと思ってね。人として扱うと権利が生じて不都合が出るじゃないか? それに君は女の子だしね、なおさらだよ。ああそうそう、備品と言えば渡したウジャットはちゃんと持ち歩いているかな?」
 ……私はひっそりとため息をついた。彰俊さんと会話が噛み合わないのは彼が面白がって意図的にやってることなので、相手にするときりがない。
「持ってます……はあ、もういいです。それよりこれ、何ですか?」
 私がソファに座って地図を指差すと、彰俊さんも私の対面に腰を落ち着けた。ポケットから煙草を取り出して着火する。しゅぼ。
 私は目をそらす。
 火というものが、好きじゃない。
 見ていると、ただそれだけで――左手の疼きが、増していくようで。
「それ、明日になるまで肌身離さず持っているんだよ。
 で、これかい。今日の予定を考えようと思ってね。『鬼走り』は単純なルートを徘徊しているみたいだから、 同じく単純な計算でおおよその出没しそうな場所と、あれの本体を特定しようと思ったんだ。なかなかうまくいかないもんだね」
 彰俊さんはやれやれと肩をすくめ、オーディオの方を振り向いた。流れるジャズは音源が悪いのか、音割れが頻繁に起こっていた。
「今日初めて聴いたんだけどさ、少々耳に障るな。ねっとりしてる」
 いつもうるさいロックかけてるじゃないですか、とは言わなかった。私は別のことに注目していた。
「――鬼走り?」
 ……鬼は古来、中国においては「陰」と表記されていたという。そしてあちらでは、陰とは幽霊の類を指す言葉だった、と思う。そんなあやふやな記憶を連想した。
「あれって、やっぱり幽霊とかそういうのなんですか」
「他に何かあるのかな? あれはどうみても肉体を伴った生物じゃないよ……そうか、君は雑念の類と人の識別がまだできないんだったね」
 いや、私もあれ――鬼走りが生きた人間じゃないのは肌で感じていたんだけれど。彰俊さんは何か思い違いをしたようだ。
「まあ、中には僕や君みたいに異常な能力を持ち得る人間もいるから、姿形が似ていたら見分けが難しいのかもしれないね。もう一度言っておくけど、あの鬼走りは人じゃない」
「……じゃあ、あれは何なんですか? なんか私、ジェットババアとか、白いセダンとか、そういうのを連想したんですけど」
 私が小学生の頃に流行った、たわいのない怪談だ。後ろから猛スピードでおばあさんやセダンが追いかけてきて、追いかけられた車は事故を起こすのだ。あの鬼走りと違って、これらは車で走行している場合だけど。
 彰俊さんは、ああ、追走の類か、とよく分からないことを口にした。
「都市伝説というのはあたらずとも遠からずかな。あの鬼走りは……雑念が集まって明確な意思の輪郭を持ったパターンとでも言うかな」
「雑念?」
「うん。まず、君たちの言う幽霊を、僕たちは二種類に分類する、というのは前話したね。死人と雑念。雑念はまあ、残留思念って言い換えることもできるね。幽霊と言ってもそれ単体じゃ生身の人間にはほとんど影響を与えない、残りかすだ」
 話が輪をかけて面倒になってくる。どうやら彰俊さんは語りモードにスイッチ転換したみたいだった。
「それで、話を分かりやすくするためにここではかなりの暴論を吐こうと思う。雑念の幽霊と、都市伝説や神話といった「噂」は、同じようなモノだ」
 そこで、彰俊さんは話を止めてしまった。……どうやら、私が何か意見を言うのを待っているらしい。難儀な人である。
 少し考えた後、口を開く。
「――それは、どちらも人の想いが含まれているからですか?」
 例えば、さっきのジェットババア。
 あれには、見たら事故を起こすという話と、ただ運転手を驚かせて走り去っていくだけ、という二通りがあった。
 都市伝説や神話っていうのは、色々な人によって語られ、伝播していく過程で改ざんされていく。それは多様性を求める心理の結果かもしれないけれど、そういうのもひっくるめて人の意思が介入したことによる。人間はそれぞれ持っている視点や思想が異なるから、伝聞であっても自らの口から語る場合、自分の言葉で話さないといけない。
 ゆえに、多くの人の口によって語られたお話は、語られただけの数の意思の残滓を内に取り込んでいる、とは言えないだろうか。
 まとめよう。私の付け焼刃な考えはこうだ。
 彰俊さんが雑念と呼ぶモノが残留思念というのなら、それは個人の想いであり。
 噂というのもまた、不特定多数の想いをはらむモノで、それらは――
「そうだね。そこにあるのは規模の違いくらいであって、同種の概念と言える」
 彰俊さんは旨そうに煙草をふかした。紫煙が立ち昇り、天井付近の空気にとけていく。
「――それで、同じ概念といっても、噂や雑念は、生者みたいに確かな肉体を持ってるわけじゃないからね、くっついたり離れたりするんだ。噂の方がより大きな概念だから、雑念が取り込まれる、といった感じかな」
「……それが、意思を持って動くんですか?」
 いや、それは正しくない。なんというか、
「意思を借りる、という方が正しい」
 そう、それだ。
「噂は多くの人の想いが雑多に交じり合っているがゆえに、明確な強い意志の残滓もない。けれど、雑念にはそれがある。わかるかな――人間の残留思念が確固たる意識規模を手に入れて、自分の思念、残された意思を果たそうと行動を始めるんだ。
 それが、『本物の都市伝説』の一例であり、あの鬼走りが出没に至った構造だ」
「…………」
 私はしばらく、左側と煙草の火に視線を向けないように、辺りをぐるぐる見回していた。
 相変わらず、彰俊さんの語る内容は与太話が多い、と思う。
 思うのだけど、私にはそれを否定することはできなかった。
 私はこういった怪奇と遭遇したことが、多々ある。
 遭遇したのが私だけなら、ただの妄想で片付けられるのだけど……あの事件には東屋さんや、他の人々も巻き込まれていた。この話を否定することは、彼女たちが負った不幸をないがしろにすることだ。それに――自身の存在否定にも、なってしまうのだった。
「以前のドッペルゲンガーも同じようなものだ、といったらわかりやすいかな?」
 私がそんなことを考えている内にも、彰俊さんの話は続いている。
「で、そうして出来たモノは、もう以前の雑念じゃない。融合した噂の性質を取り込む。噂とは元々人々が作り出した創作だ。けどね、それが確固たる存在規模を持って現実に影響を与え始める」
 似たようなことを、以前彼の口から聞いた。都市伝説とは、九割以上がただの創作で、その中のほんの一握りが根拠ある本物の怪奇なんだって。
 それが今の話だと、逆だった。
「……夢が、現実を浸食するんですね」
 ぽつり、と考えが口を割る。
「君流に言うと、そうだろうね」
 噂の大元になる怪奇もある。
 そこから生まれた創作もある。
 けれど、この場合。
 その創作が、人の間を渡り歩く内に、本当の怪奇に変じてしまう――

 ――それを。
 それを駆逐するのが彰俊さんの義務であり、
 彼の管理下にある備品たる、私の役目だった。

「喜ぶといいよ、葬儀屋。今回は君の出番だ」

 彼は私に告げる。
 ロッカーは静まり返っていて、ねとついたジャズが空間を支配している。

   *

 私は、学校で得た情報を彰俊さんに報告する。
 それが彼にとって何の意味を持っているか、推測は出来るけど本当のところは分からない。
 だけれど、私にとっては非常に重要なものだった。 

『今から話すのは、上馬場さんから聞いた話なの。それをまず前置いておくね』
 昼間。学校から総合病院までの道中、東屋さんはそう言った。
 彼女は他人の口から得た情報を口にする場合、なるべく自分の主観を混ぜ込まない。自分の思いを語ることと、人に情報を伝えることの違いを明確にしようとしている。普段はどこかとぼけてるのに、そういうところは恐ろしく大人だなと思う。
『あ、それと、高峰君のこと、千夏ちゃんはどのくらい知ってるの?』
『陸上部の部員で、二年生っていうことくらい』
『彼、陸上部の部長だったんだよ』
『そうなの? ……あれ、陸上の部長って三年の清水さんじゃなかったっけ?』
『そこのところ、なんていうんだろ、複雑な事情があるの』
 ――元々うちの高校の陸上部はあまり部員が多くない。
 去年の三年生が引退してしまった後は、最上級生はさっき会話に出た清水さんという人だけになってしまった。
 必然的に彼は部長になり、今年の始めまではなんとか陸上部を引っ張っていた。
『だけどね、今年の二月くらいに清水さん、体を壊して入院しちゃうことになったの。詳しいことは分からないけど、内臓のどこかがおかしくなったんだって。それで、なんとか二年生だけで部をやっていかないといけなくなって、清水さんがいない間の代理に副部長を立てることになったの』
『……そこで、その高峰君が選ばれたの?』
 上馬場さんが言うにはね、と東屋さんは前置く。
『他にやる気のある人がいなかったんだって。ほら、部活って二通りの楽しみ方があるじゃない? 運動系の部活みたいにがんがん練習して、あー俺たちゃやりとげたぞー、っていう達成感を得るタイプと、皆でわいわい騒いで遊んで、どっちかというと部活はおまけ、みたいなタイプ。
 陸上部の人たちって、がんがんよりわいわいが好きな人が多かったみたくて、誰が部長やるよー? っていう話になったんだって。それで、高峰君って、陸上を真剣にやりたいっていう思いがすごく強い人らしくって。部長やるやつがいないなら俺がやってやる! ってすごい意気込みで立候補して、そのまま臨時部長になっちゃったの』
 私は腿の筋肉痛に意識を半分取られながら、高池さんの話を聞いている。
 高峰部長の行動。
 それは、なんだか危うい気がした。
 がんがんとわいわい、どちらが良くてどちらが悪いというのは、とても論じるに難しい問題である。だからこの際置いておいて。
 両者はけっこう水と油なのだ。
 よほど上質の乳化剤がないとうまく混ざってくれない。下手をすると――
『それで、臨時部長も行方不明になっちゃった?』
 そんなことを考えながらも、私は話の本筋を進めた。彰俊さんのメモに書いてあったのは、
「ここ最近、君の学校で行方知れずになっている人間がいないかどうか探してくれ
 普段なんらかの方面において非常に真面目であって、さらに運動系の部活に所属しているかもしれない。
 それと、その人物が失踪した前後関係、失踪に関連していそうな事情も」
 ということだったからだ。とりあえず陸上部の内情についてはこの後で聞くことにする。
 東屋さんはこっくりをした。
『先月の終わり……いつだったっけ。二週間と三日くらい前。三月の終わりに、ふらっといなくなったんだって』
『二週間、と三日くらい前』
『自主トレで、夜のジョギングに出て行って、それっきり』
 それっきり、という言葉を最後に、私たちの会話は切れた。商店街を歩く二人の沈黙を、雑多な音が彩る。
 東屋さんは不安そうな顔をしている。けれど、それは学校という身辺で何かが起こったからという自己保身的なものから来る不安定さじゃなくて、誰かを案じるような感じだった。
『……東屋さん、心配?』
 その私の一言で、東屋さんの事務的であろうとする側面は心の奥に引っ込んで行ってしまったようだった。
『……うん。上馬場さん、どうするんだろって』
 東屋さんの正直な部分がさらされる。彼女はちょっと自嘲気味に笑う。
『ほら、あたしってけっこう薄情なの。高峰君はたまに挨拶するくらいだし、だからあんまり……だけどね、上馬場さんは仲いいし、あの子、今ホントにやばいの。今にも死んじゃいそう。学校休みがちで、たまに出てきても顔色が土気色なの。あたし、どうにかしてあげたいけど、』
 どうしていいのかわかんないよ。
 掠れかけた声で呟くと、彼女は顔をうつむかせた。
 直前に見えた顔は――泣きそう、だった。ああ、この子はやっぱりいい子だなと私は思う。私とは違う。
 自分に精一杯な私は、他人のために悲しむことなんてできない。
 羨ましかった。
 だから、せめて真似てみたかったのかもしれない。
『なんとかなるよ』
 私は東屋さんの肩に手を置いた。一見、投げやりとも聞こえる言葉と共に。
 本当は、なんとかするよ、って言いたかったけど……
 言えなかった。
 それはある致命的な結果を予測し、それに基づいて行動するという宣言に他ならなかったから。

「二週間と三日前、夜のジョギングに出て行方不明」
 彰俊さんは紫煙を吐きながら、私と同じようにその点を強調した。
「なるほど……今日君に渡したメモの内容を、方々の知人に訪ねてみたんだ。学校だけじゃなくて、色んな勤め先にもね。けどどうやら、君が当たりだったみたいだ」
 彰俊さんが卓上の地図を引き寄せる。×を人差し指の腹でなぞっていく様を、反対側から私が見ている。
「高峰君は、どうなったんでしょうか」
「君はどうなったと思う?」
 その反問は、返事を期待するものでなかったらしい。彰俊さんはそのまま話し続ける。
「自分の中で既に仮説が出来ているというのに、それを人に話さすことなく正否を試そうとするのは、探偵小説みたいで感心しないよ。まあ、君が何を考えているかは大抵予想がつくけどね……可能性は、二つくらいじゃないか? もちろん、その高峰君が事件に関係しているという前提での話だけど」
 そんなことを言うのは、理屈っぽい語り口が探偵めいている彰俊さんなのだった。
 ……普通なら、ここでどうリアクションを取るんだろう。言いにくいからあえて訊いてることくらい彰俊さんはまるっとお見通しなんだろうから、傷つくべきなんだろうか。怒るところだろうか。
 かつて一度に失いすぎた私は、それ以来こういう場面に直面した時、どういう反応をすればいいのか分からない。他人の反応ならなんとなく推測できるけど、自分のこととなるとまるで駄目だった。
「一つ。その高峰君が鬼走りの最初の被害者で、まだ遺体が発見されていない」
 ……正に「致命的」な話だった。
 唐突な説に思えるかもしれないが、符号はかなり合っている。高峰君がどこかで家出ライフを楽しんでいる場合、この説は全くのデタラメになってしまうけど……逆に、高峰君が生きているとすれば、どんな場合があるだろう? 彼女がいて部活熱心で、その上部長まで任せられた高校生が日課のジョギングに出かけたっきり二週間と三日が経過。周りの人間に何か言い残しているということもない。
 私にはとっさに思いつかない。
 夜逃げでもない限り、行方不明になった人間というのは大抵死んでいるものなのだ。それは私の実体験でもあり、高峰君がもう生きていないというのは……私も、前提に置いていた。
 そして。
「……もう一つは?」
 その質問は、確認としてのものだった。多分、彰俊さんが言おうとしていることと私が考えてることは同じだ。
 確証はなくとも、推測としては充分範囲内である。あの鬼走りは、他人に走ることを強要するのだ。
 私は、記憶の中の東屋さんとの会話を反芻する。
『それでね、高峰君、臨時部長になってからはあんまり評判がよくなかったんだって。本気で陸上をやる気のない部員の皆に喝を入れようとして練習メニューを引き締めたんだけど、皆は厳しすぎるって言って。最後にはストライキ? っていうのかな、こういうの。それが起きて、高峰君、かなりやつれてたみたい……でも、それでも陸上部を変えてやる、ってがんばろうとしてたらしいよ』
 やる気のない部員に喝を入れる、というのは上馬場さんの言葉だそうだ。ストライキ、陸上部を変える発言もまたしかり。
 上馬場さんは陸上部のマネージャーだそうだから内情には明るいのだろうけど、同時に彼女は高峰君の彼女なのだ。その言葉には高峰君の主観が混ざっている恐れが高いから、鵜呑みにするのはちょっと危ない。
 なので、例えば。
 高峰君は有り余るやる気を空回らせてしまって、部員達が体を壊してしまうような無茶なトレーニングを組んでいたとか。
 それを拒絶されたのを、頭に血が昇ってしまっていた彼は「皆にはやる気がない」と取ってしまったとか。
 ――そういう可能性もありえる。
 もし、その情念が行き過ぎた状態で彼が亡くなってしまったというのなら……
「二つ。あるいは、その高峰君自身が『鬼走り』そのものである。彼は、なんらかの要因があって、ジョギングに出た後死亡してしまった。しかし死んだ後にも彼の遺志のみは留まり、あの『鬼走り』へと変じた。そんなものかな」
 彰俊さんは、物について語るような口ぶりでそう言った。その表情が相変わらず曖昧で、およそ人間味に欠けていたものだから――
 ほら、来た。
 体の芯がほぐれて溶け始めるような違和。その内それは、体と心の連結部が剥がれて別次元へ移行するような離人感に変異する。
 左手が、疼きはじめるぞ。
「と、もうこんな時間か。そろそろソーギの家は門限じゃないのかな?」
 彰俊さんが時計を見上げ、煙草を吸殻の中に突っ込んだ。火が消えて、溢れた灰が鈍色の皿の端から落ちる。はらり。
「一度帰るといい。日付が変わる頃に、またここに来てくれ。今夜が本番だ」
「はい」
 私が返事をすると、立ち上がって出口に向かった。

   *

 外に出ると、街並みは夕焼けに照らされていた。その色彩は炎に照らされる焼却物に似ていて、私はコールタールのような地面に目を落とす。
 帰宅するために右足が一歩前へ動く。左足も前へ。右。左。右。
「痛い。――いたい」
 左肘を握る。呟きは自分の口から出たものなのに、まるで他人が私の体を借りて発しているようだった。
 しかし、この離人感は、一時的なものだ。屠めれば止まる。痛みも止まる。

 よって、駆除しにいざ行かん。

  

0/

 夜になった。
 自主トレの時間だ。
 ――部員達への表立った説得が無理だと分かった俺は、あの日から方針を改めることにした。
 有言実行から、不言実行に。
 俺はこれだけ真剣にやっている。だからお前らもやる気を出せ。
 そう言外に、皆に訴えることにした。
 もちろん、皆には自分が自主的にトレーニングをする旨を伝えている。
 どれだけ、ついて来る人間がいるだろうか。
 俺は走り始める。
 今日は部員は現れるだろうか。
 いっしょに走ってくれるだろうか。
 俺は部員を探す。

  


 夜になった。
 仕事の時間だ。
 私は昨日と同じ未明に家を抜け出して、彰俊さんと合流した。
 しばらく肩を揃えて歩いたけど、その間互いに言葉はない。
 私はあまり喋れる状態じゃなかったし、彰俊さんは彰俊さんで静かな緊張感を滲ませていた。仕事中には癖のある様子は影を潜め、必要な説明以外は口の端にすら乗せようとしなくなる。それが彼の常である。こちらが彰俊さんの素じゃないかと私は思っている。
「――この辺りがいいかな」
 散歩の途中に一休みする場所を見つけたような口調で、しかしあらかじめ決めていたように彰俊さんは足を止めた。
 私は事務所で見た地図を頭の中で思い描く。
 そこは二人目と三人目の被害が起こった現場の、ちょうど中間くらいの場所だった。
 地方都市とはいえ、外れに出てくれば緑が多い。道は舗装済だけれど、路傍は雑草が生い茂る。元々二芝市の地形は盆地なので、少し遠景に目をやれば、低い山が連なっていた。
 一度腰を据えると、彰俊さんは鬼走りを迎えうつ準備を始めた。といっても、羽織ったジャージのポケットからサバイバルナイフを取り出しただけだ。シースから抜かれた大振りの刀身が、すらりと銀細工の煌きを闇に転写する。
 私もそれに倣って、持ち物を点検する。メモといっしょに渡された、ウジャットとかいう眼を描かれた護符が一枚。それだけ。そもそも、私には道具なんて必要ない。役割の問題だ。備品は所有者に使用されるべきモノであり、備品が備品を扱う道理なんてない。今回のこれは例外的な事態だった。
 一足先に準備を終えた彰俊さんは、手近な電信柱にもたれて煙草を吸っている。火種から目をそらすと、後は待つだけになった私は周りに視線を彷徨わせた。
 ――昏い闇にまどろむ街。その構成物たちは、等しく紛い物めいて感じられた。そぼそぼとした街並みも、すぐ傍の彰俊さんも、自分の体すらも。視覚も聴覚も触覚も、およそ感覚器が正しく機能しているように思えない。
 その中において、唯一確固たるは左手の幻影痛のみ。
 痛みというのは、私というあやふやなモノの輪郭をふちどって、確かなもののように感じさせてくれる。けれど同時に、それは脳が生んだ幻であり……ひどく背反めいていた。
 私は求めていた。
 背反が解消される瞬間を。
 昼間、病院の路地裏で体験したような、自分と周りの物が同じ世界に存在している感覚に焦がれていた。普通でない私には、それが何よりも得がたいものだったから。
 それ故に、私は備品としてここにいる――
 じゅっ、と音がした。
 彰俊さんが投げ捨てた煙草の火が、排水溝に落ちて消える音だった。
 その瞳が、無言で告げるモノがある。私は彼の視線の先を見すぼめたけど、それは見極めるためじゃなくて確認のためだった。
 その時には、左手が耐え難い程疼きを増していたから。
「……識別番号第百六十三、仮称『鬼走り』を確認、」
 炯然とゆらめいていた。
 道の向こう、遥か先で、昨日と同じ時に目撃した兇眼が。
 昨日の焼き直しのように、闇よりなお昏い人影が、その姿を現している。
 ――するり、と服を脱ぐような自然さで、
おかしなところ鬼走りへ繋がる感覚がした。
「不適合につき、これより駆除に移――」
 音吐朗々と夜闇に響き渡っているであろう彰俊さんの声は、ドップラー効果が起きそうな勢いで後ろへ流れていった。

   *

 だだだだだだ。
 閑散とした道に間抜けなほど反響するのは、私の足音。
 鬼走りを認識した瞬間、私の体は視神経を介して体の操作権限を略奪され、本物の操り人形と化した。鬼走りはそれから即座に踵を返し、横合いの路地に走り去った。
 田園風景と家々の背が奇妙さを醸す道端の景観が、激しく上下にブレながら流れていく。鬼走りはかなり先行しているために姿は見えないが、私の脳裏には昨日目撃した彼の走る様が思い出されていた。
 それは洗練されたアスリートの挙動。
 私の体も倣って手足を掻き動かしたけど、同じ様にはいかない。アレの機能は身体を引っ張って走行を強要するだけで、対象に自身の挙動までを再現させるモノではないらしい。
 ――凄まじい痛みが、精神を削る。
 走り慣れていない素人が、助走もなしに最初の一歩から全力疾走している。半ば転ぶような走り方になるのは当然のことである。無駄だらけのフォームと呼吸法は相当の負荷を肉体に与える。なかんずく私の体は前日の疲弊を溜め込んでいる。細胞が乳酸と炎症それに過度の無酸素運動による壊死の危険性を訴えて身体が軋む軋む軋む。
 なるほど、と考える。
 これでは人体など簡単に破壊されてしまうだろう。
 昨夜と同じ程度に、私は冷静だった。身体は苦しい、辛い。けれどそれの意味するところが分からない。言うなればその感覚は「く」と「つ」と「う」の三文字の集合で、「苦痛」を意味するところではない。つまり私を苛むこの「凄まじい痛み」が端を発するところは――
 その時、鬼走りの昏い姿が視えた。
 十字路を右折。三叉路の一番左を疾走。ぶつかった空き地を駆け抜けた。舗装済み、しかし区画整理まで済んでいない入り組んだ地域を、鬼走りが走る。後姿はトラックを走るスプリンターのようで、雑然としていながら閑散とした、錆び付いて死に行く風景とはミスマッチかもしれない。
 しかし景観の不協和などさしたる問題ではなく、そもそも今の私はそんなことは感じていない。この昏い夜に抱かれた被造物は全て同質の属性を内包するものであり、その属性とは詰まるところ、私と私を走らせるこの昏い背中に集約される。
 私は彼を感じていた。
 彼は私を感じていただろうか。認識はしていても、感じていないかもしれない。感じるとはつまり、認識した事柄を元に思索することだ。
 この『鬼走り』の核は、死者が残した最期の執着であり。
 ただの残滓である以上、思考する機能なんてそもそもない。

 ――俺は走るためにここにいる。

 その遺志が。
 曲がり角を折れる度、速度が上がる度、感応した私に侵り込んでくる。

 ――お前らはそうじゃないのか。そうじゃないとしたら何をやってるんだ。いっしょに走れよ、跳べよ、停滞するな。走るべきだ、走るんだよ、走ろう――走れ。

 ……彼は、志を同じくする仲間を欲しているだけだった。
 しかしそれは本来伝わらないはずの想いだ。他者に知ってもらうためには、言葉、行動、そういった伝達手段を以って正確に綴らないといけない。
 彼は失敗した。想いが先走りすぎるあまり、正しく伝えることができなかった。それが彼の遺恨であり、肉体を失ってなお、それを誰かに伝えたかった。
 だから、それは意図せざる殺意。
 大衆の想いに合一し、歪められた彼は、想いを伝えるために、目線を合わせた者に追走を強いる。結果として殺してしまおうとも、彼は頓着しない。そも追走するのが部員であろうとなかろうと、彼は気づかない。彼はもう、閉じられているから。
 ああ――それは、辛い。走らされながら、私は茫洋と考える。
 少し違うだろうけど、私はその辛さを知っている。
 自分が感じているものを他人に知ってもらうのって、とても骨の折れる作業だ。
 だって、人によって世界の見え方というのは違う。それは当たり前だけど致命的な事実で、人と人がわかりあうためには前提となる認識の差を埋めていかないといけない。
 ……そんなことは、普通の人間には根本的に無理だ。私の幻影肢を他の誰もが見ることが出来ないように、彼の
本心さついも誰にも理解なんてできない。

 こうやって、何かの間違いで繋がってしまわない限りは。

 ぱん、とコップが割れたような音がした。
 それは、鬼走りの強制に終わりを告げる鐘の音。
 暴走していた四肢が突如動力を失った。体がもつれるように転倒した。世界がごろごろ激しく回る。景色は黒、黒、黒、黒、黒。私の四肢がだらしなく地面に投げ出される。仰視した空は黒く、なるほどアスファルトと空の境目を転がっていたらどっちがどっちか分からない。
 ……そんな他愛のない思考を続ける私を放っておいて、体が立ち上がろうと蠢いていた。操られているような感覚は、鬼走りから解放されたのに止まない。
 それはただの幻覚だと分かってる。
 体が動くのは心の意志。
 私は立ち上がろうとしている。
 けれど、他人事だった。世界で起こっている出来事はひとしく私からは遠くて、それは自分の体であっても例外ではない。
 それは、鬼走りに操作権限を奪われたがために起こった感覚異常ではなく、幻影肢を患った際に併発するようになった発作だった。
 要は自分が『吉岡千夏』である確証がなくなり、同時に世界そのものまで虚偽に見えてくる。カウンセラー曰く、『離人症』という神経症の一種だという。
 私はそれを「接触不良」と見なしている。
 私の感覚がおかしくなるのは五感に異常が起こるからじゃなくて、五感とそれを受容して処理する意識との「繋がり」がうまくいかなくなるから。彰俊さん曰く、異常をきたした私の身体図式は自身のイメージを保持しようとするあまり、外界からの入力を殆ど遮断してしまうそうだ。けれどそれでは気絶と同じだから、入力を補うためにある記憶を反復させる。
 それは、私が恐れる苦痛の記憶。
「                           」
 音波が鼓膜を震わせているが、何なのかよく分からない。私は左二の腕を握り締める。その遠い感覚は鼓膜を震わせているのと同じ類であることに気づき、何が分かっていないかが分かった。この音は自分の喉から発せられている呻き声だ。それも苦痛を訴えるもの。
 彰俊さんが吸っていた煙草の火が、脳裏ではじけて消える。
 私の失われた左手は、その最期を再現し、灼熱の只中にあった。
「            」
 熱過ぎて既に熱として感じられない、それは痛み。度を越した触覚というのはすべからく痛覚として認識されるというのは本当だ。他の痛痒は全て遠いというのに、幻である左手からのこの感覚だけは、いっそ狂おしいまでの現実感を伴う。
 二の腕を握る手に、もぎ潰す勢いで力を込める。狂ってはいけない。これはまだ、前戯に過ぎないのだから。
 体が立ち上がった。自分が置かれた状況下を確認――事務所で見た地図を脳裏に展開させて位置を測る。鬼走りとの遭遇地点よりずいぶん離れた細道。ポケットに右手をやると、護符が焼けた栗みたいにはじけ飛んでいた。
 ウジャット、ホルスの目とも呼ばれる治癒眼の護り。
 ロッカーの貯蔵品の一つで、彰俊さん曰く『兇眼祓い』。
 私が鬼走りの呪縛から解放されたのはその効用らしい。
 うろんな外界からの情報を処理する。そのたびに思考領域は灼熱に噛み削られていく。痛い。痛い、痛い、痛い、痛みで埋め尽くされようとしていた心は、
 風を切る音と共に傍を駆け抜けて行った
銀色ナイフの閃きにより、少しだけ現実にへ繋ぎ止められた。
 ――自分の内側を探るばかりで、私は外側に殆ど注意を払っていなかった。それはどこまでも迂闊だった。
 鬼走りは私のすぐ傍に居たのだ。
 陰のような鬼走りは飽くことなく走り続けるが、間抜けのように私の周りをぐるぐる回っていた。並走者がダウン寸前のランナーを叱咤激励するように、走行強制の呪縛を再び降り注がんとして。視線を上げて、少しでも眼を合わせてしまえばそれで終り。後は死ぬまで追走を強要される。
 しかし、鬼走りは今や私に注目などしていない。彼は自らの影に、追い付かれてしまった。
 その影は、陰を排除する。
 道いっぱいに、一つと一人が展開していた。鬼走りが逃げ道を探して走り惑っている。その瞬発的な速度は、眼で追うのがやっとである。対峙すれば、あわやという間に抜き去られてしまうだろう。昨日のように、ゴールテープのように。
 ただしそれは、対峙するのが私ならの話。
 銀紙のような薄っぺらい軌跡を描いてナイフが振るわれる。鬼走りは事前に決まっていたような動きでそれをすり抜けるけど、振り抜けた刃はすい、と水を縫うように流れ、切り返しに変じて鬼走りを襲う。
 私と彰俊さんが鬼走りに二度目の遭遇を果たした時、鬼走りは踵を返し、私を引き連れて逃走した。それは彰俊さんが彼の脅威たる存在として認識されていたためであろう。今も鬼走りは、私という獲物を目前にしながら脅威から遁走を果たさんと動き回る。
 彰俊さんのナイフは、それを許さない。彼自身如何なる動作を以ってか、あれだけの速度に後れを取る事が無い。私を引っ張って行った鬼走りを追い一キロは走った筈である。だと云うのに機敏に過ぎる動作で鬼走りを霍乱し、路地へ縫い止める。
 しかし、縫い止めるだけであった。彰俊さんの刃は一太刀も浴びせられない。それも当然の事、彼には鬼走りを傷付ける気が無い。彼は自ら前衛となる役柄ではなく、駒を以って対象を倒すが本懐である。
 彼が今此処で行っているのは時間稼ぎに過ぎない――私が用意を済ませるまでの。
 確認する。
 兇眼による接続は隔たれてしまったが、私と鬼走りは未だ因縁を残していた。
 私の情念から生まれた幻影の左手が、
 人の情念から生まれた鬼走りへと繋がっている。
 それは、致死的な繋がり。
 さあ、仕事だ。

「トまれ」

 私は云った。
 只一言の、絶対的な命令。
 変容は劇的であった。
 鬼走りはそれまでの単一的だが確実な回避行動を制限され、昏い空間に体を固着された。
 足一本動かすことは敵わず、一つ目の停止が齎される。

 ――ふと。掻き消えかねない意識の中で、回想する。
   健全でない魂は、肉体という檻に囚われることはない――

 私は左手を薙ぐ。
  ――肉体という檻に囚われ、幻視というイメージでしか構成されていなかった醜悪な幻影肢。
 行為に意味は無い、無為な瞬間。
  ――夢と現実の境が限りなく薄れ、あわや消失せんとするその瞬間。
 それは自らの精神を転換させる暗示。ゲン担ぎと何が違おう。
  ――肉体という檻を謀り、魂が突破する。
 そうして私の心はさらなる拡散に誘われ、
  ――身体図式に格納されていた左手が幻影の残滓を貫通し、可視の肉を纏い、
 
 振り抜かれた左手には、本物の重みが宿っていた。

 絶叫した。
 ぎしぎしと体を苛む筋肉痛、
 疲労困憊する肉体、
 しかしそれよりも受肉した左手の灼熱が耐え難く、私は喀血するほど喉を震わせた。
 それも当然の事。私という内なる観測者にしか観測されない筈の幻影肢が、あらゆる者に観測可能な肉の左手に変じているのだ。夢が現実を蝕んでいるのだから、どんなに醜悪な姿形であろうと――否、醜悪で在るからこそ、拒絶反応が出ようというものである。
 けれどそれは、なんと甘美な痛みか。
 この痛痒に包まれる時、私は生の実感を得ることが出来る。
 それ即ち、
至る・・期待感。
 痛痒に耐え忍び、それが失せた時に得られるあの開放感は、万物に優先される。
 そんな切望が、存在と成った左手に充満し、私は、意識の手綱を握り直した。気を抜かなければ、昼間、雑念をトめた時のように前後不覚に陥ることは無い。
 私は、私としての心のまま――余す事無く、享受出来る。
 悪鬼のような幻影の腕が、末端まで寿司詰めにされた私の意思をもって、ゆるりと水平に持ち上がった。
 鬼走りは微動だにしない。正確には身動きがきかず、ただ兇眼を私に向けている。
 目線が合うものの、外界へ作用する強制にどんな意味があろうか。雑念の集合たるこの鬼走りと私の幻影肢は、共に情念から生じ、現実を侵食したモノ。それゆえに合一される因子を多分に含み――現に、私は彼に、彼は私に成りかけている。
 そう、既にして内なるモノに五感に作用する機能をぶつけても意味はない。
 そして、閉じられた自分を殺すのは自身だ。
 それゆえ、私は此れを――

まれ」
 閉じられた内側から、屠殺できる。

 その言葉を引金として、鬼走りと私を隔てていた最後の境界が取り払われた。
 この瞬間、左手を介して繋がっていた彼方と此方は合一し、私の灼熱が、鬼走りに共有される。
 鬼走りに向けた掌は、数メートルの距離を隔てているはずなのに、私は鬼走りの肌に触れた。それは薄氷の如き感覚だった。今や焼け石の様な私の痛みを吸収し、壊れてくれる移し身。左手の灼熱は劫火となって私から鬼走りへと殺到する。
 ――鬼走りの痛みは私の痛み。その痛痒は合一された私にも及ぶ。
 しかし痛みは同時に、私という存在の輪郭を確かなものにしてくれる。鬼走りと私は合一されていながら別々の存在であるということを知らしめてくれる。
 故にその劫火は私には及ばす、寧ろ初めから私の左手の内に在った痛みである。私を蝕むものである筈がない。今やそんなに考えられた。
 半ば取り残された鬼走りは、その身に移し込まれた灼熱によって、影の躰(からだ)を焦土と変えて行く。物質的ならぬ断末魔の声が聞こえた。
 それは怨嗟である。歪み、矛先が不明瞭に成り果てた雑念の内容物。
 そこには孤愁はない。彼の者より出ずる残滓は、此処で再び葬儀せしめられるのである。
 それが、私の役割。
「葬儀屋」と名付けられた、私の役割。

 ――鬼走りが荼毘に臥される様を、私は見届けていた。
 鬼走りが灰燼と帰し、幻影との脈絡が途絶え。
 境界が隔てられるまで。

  


 今度の目覚めには、苦痛は伴っていなかった。むしろ目覚めより寝入りに苦痛が伴っていたような気もする。
 寝覚めの頭でそんなことをぼんやりと考えつつ、私は目を開けた。
 ――昨日と同じ。見慣れた白い天井が、視界いっぱいに広がっている。
 外にいたはずなのに、なんでけっこう遠い事務所のベッドに横になっていたんだろう、とかは思わない。トめた後に私が意識を失うのはしょっちゅうで、もう貧血くらいの認識だった。
「……げ、もう、四時、なんですね」
 掛け時計を見やってそんな感想を漏らしつつ、ベッドの上で起き上が、ろうとして私は身体を痙攣させた。
「…………」
 筋肉痛でめちゃくちゃ辛かった。
 自分で自分を抱くような情けない格好でびくびく悶えながら、ベッドの上に転がってしまう。
「いきなり動き出そうとするんだから、仕方ないよ。自分の身体がどれだけ疲弊しているか、君は分かってるかな? 苦しいようだったら手を」
「……お、願いですから、何」
 もしないでください、痺れた足をつっつく真似は勘弁してください、お願いだから、ほんとに。
 言葉にならなかった後半部分を汲み取ってくれたのか、彰俊さんは、
「はは、君に触れたのは最初の一回きりだよ?」
 なんてことをのたまった。ボディランゲージでいじるのは妹さんだけと決めているとのこと。このシスコンめ。そんな既に何に向かって憤っているのか分からないような思考を抱えて痛みに耐える。昨日と今日と、どっちが辛いだろうか。五十歩百歩でどっちも同じような気がした。
 ――ただ、ひとつ明確に違う点がある。
 この苦痛は、「く」と「つ」と「う」の集合じゃなかった。
 痛みは痛みとして、身体から心へ滞りなく通達されている。シーツと身体の隙間から覗き窺うが、あのグロテスクな形状は私の視界には入らない。左手は最初からなかったように、視認できなかった。
 数時間前まで現実と化していた左手は、幻影と消えていた。
 それが救いといえば救い。「救いのない救いだ」と誰かが言っていたけど、これがあるから、私は痛みに向き合った。
「その様子じゃ、しばらくは動かない方がいいね。送ってあげようと思っていたけど、少し休んでいくといいよ」
「……お言葉に、甘え、させてく……くだ、さい」
 小刻みに震えている私から離れてスツールに腰を下ろすと、彰俊さんは煙草を吸い始めたようだった。私は煙草呑みじゃないけれど、鼻の中に広がるこの香ばしさは嫌いじゃなかった。すこしかなしくなってくる匂いは、私の意識を左手にやらせる。
 身体に押し付けていた左腕をそっとはずし、卵みたいな断面をシーツに触れさせてみた。しゅら、とやさしい布擦れの音がした。
 しゃべることが生きがいのような彰俊さんは、私が聞いているのいないのおかまいなしに何かを話し続けている。その声にたまに混じる、煙草をのむ吸気、吐く呼気。隣の応接間から微かに漏れ流れる、ロックバラード。私はひとつひとつの感覚をしっかりと受け止めながら、まぶたを閉じた。
 幻影肢が失せているこのひと時を、私はいつくしむ。
 身体と心がうまく噛み合っている。私は世界を世界として認識している。それは、とても正しいことのように思えたから。
 他の人にとってはこれは当たり前のことで、正否を問う以前の問題なんだろう。たぶん彰俊さんにこれを話しても、納得はしてくれても理解はしてくれない。高池さんにだって、あのカウンセラーにだって、親にだってそう。
 だけど、それゆえに私は、これは正しいことだ、と思った。
 ――だから、私は屠めるのだ。

 世界を感じながら、世界に包まれながら。
 私は左手のないこの世界で、まどろみの狭間におちていく。

 きょうは、いい日だ。





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